車をそこに駐めたのは、母が名物のみやげでも買うつもりであったかとも思われる。それはともかく、そういうところが菓子屋であるという、店の格好から来る印象は前々から既に強く受けていたものがあったにちがいない。幼いなりに、またそれだけに、そういう印象を拠りどころにして、無意識にもせよ、それとこれとを比較する能力をいつかしらに蓄えていたにちがいない。その比較の証拠に立つのは麹町三丁目の船橋である。
 船橋は有名な古肆《こし》で、御菓子司《おかしづかさ》の称号を暖簾《のれん》に染め出していた御用達《ごようたし》である。屋号を朱漆《しゅうるし》で書いた墨塗の菓子箱が奥深く積み重ねてあって、派手な飾りつけは見せていない。番頭《ばんとう》がその箱を持って来たり、持って行ったりして、物静かに立ち働いている。すべてが地味で堅実らしい。その店へよく母に連れられて行った。それをしっかり覚えているのである。たまたま雷雨に阻《はば》まれて車を駐めたその店がちょうど船橋と同じ格好である。そんなわけから、その店が菓子屋であったということを、今だに疑わずにいる。

 その四。西郷星というものが出るといっておどかされていた。どんな恐しい星であろうか、臆病な鶴見はついに見ずにしまった。そのころのことである。島原の新富座《しんとみざ》で西郷隆盛の新作の芝居が打たれた。あれは多分|黙阿弥《もくあみ》の脚色に成ったものであったろう。連日の大入であったそうである。この芝居へも母に連れられて見に行ったものの、平土間《ひらどま》はもとよりどの桟敷も超満員で、その上に入り込むだけの余裕がない。なんでも座頭《ざがしら》の席とかで、正面の高いところへ無理に押し上げられた。そこまでは幽《かす》かにおぼえているが、印象はそこで消えて、その先は思い出せない。その代りここまでくると年代はよほど明かになる。この芝居も折から来朝中の米国大統領グランド将軍の観覧に供えたものという。もしそうとすれば明治十二年である。果してこの年であれば鶴見が戸籍面四歳の時である。

 もっと零細な記憶の破片なら幾らでも拾われよう。そうは思うものの、その数はいたって少ないものである。漸く拾いあげたものを次に列挙する。
 多摩川《たまがわ》の渡し場。そこから川上に富士を仰ぎ見たこと。これは大師詣の途《みち》すがらであったのだろう。それから品川の料亭で、愛想の
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