介に立って、客の言葉を受けて、それを伝えてくれる。聞き慣れたものの音声が、何といっても聞きよいのである。そうでない場合は、客に一方的な筆談を煩《わずら》わすことになる。それでは客に対して気の毒でならない。そういうようなわけで、たずねて来てくれる客も絶えがちになり、こちらからはもとより往訪も出来ない。かれの孤独は一層甚しくなる。それにもかかわらず、鶴見はよく堪えて、静かに引籠《ひきこも》って、僅かにその残年を送っているのである。

 その鶴見がきょうは珍らしく機嫌が好い。梅の花が咲き初めたということがまだかれの思考を繋ぎとめているらしい。
『正法眼蔵《しょうぼうげんぞう》』に「梅花の巻」といわれているものがある。かれはそうと気がついて、急に見たくなって、傍《そば》に書架《しょか》があれば、手を出してその本を探したいような心持がした。そうは思ってみても、今の境遇ではそのようには行かない。かれの蔵書はすべて焼けて灰になっているのである。梅花の巻に代えて劫火《ごうか》の巻が眼前に展開する。またしても寂しい思いがさせられる。せっかく明るくなっていた気分が損《そこな》われるのを惜しんでもしかたがない。かれは気を励まして、本なんぞに追随するのを止《や》めて、まだ手馴れていない批判的態度に出てみるのも面白かろうと考えている。もし間違っていれば引込ますだけのことである。かれもここで少し横著な構えになる。
『正法眼蔵』が何であろうと、今日のかれには余り関《かか》わりはないはずである。あれを書いた道元は禅には珍らしく緻密な頭脳を持っていたということを、誰しもが説いている。それには違いなかろう。峻厳である一方|悟道《ごどう》の用心が慎重である。徒《いたずら》に喝棒《かつぼう》なんぞと、芝居めいた振舞《ふるまい》にも出でない。そこにも好感が持たれる。殊にこの『正法眼蔵』は和文で物してある。われわれに取っては漢文を誤読するような過《あやまち》をせずに済む。それが先ずありがたい。ずっと前に読んで、まだ頭に残っている印象をたどって見れば、何か近頃の評論家の文章を読むような気がするものがあるように思われて来る。それもなつかしい。
 鶴見に取ってはそこに出てくる、今の言葉でいえば、分析とか弁証とか超克とかいうものは、ただそれだけのものとして、そう深くは心を牽《ひ》かされていない。「梅花の巻」に限らず、
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