た。わたくしはまた徐ろに幻想の花園を徘徊しよう。
 Fleur Mystique ――これはギュスタアヴ・モロオの圖題の一つだ。神祕なる花卉の中には各時代の耽美性によつて代表された百合の花の屬や向日葵を數へあげることが出來る。わたくしは更にモオリス・マアテルリンクの Serres Cnaudes をそつと窺つて見る。よくは見極められぬが、月光に育まれた奇異な草木の花葉から蒼白いさざめきの聲が起る。こゝにもあのラファエル前派の蘭のにほひが幽かに顫へてゐるらしい。歩を轉ずればシャルル・ボオドレエルの Fleur du Mal ――こゝに到つては言葉を知らない。爛れた落日の光に照らし出される肉慾の精神、宿業の重い霧のメランコリア、執著の火むらから生じた摩訶鉢特摩。――何とでも云へるが何事も云へないのである。
 それは兎に角、わたくしは、あの寶石の情調を解した色彩家、ギュスタアヴ・モロオはまさしく仙人掌の愛好者であつたといふことを、こゝに書き添へて置きたい。
 わたくしは世俗のかげにかくれて、をりをり植物園に出掛けることがある。それはその園内にある温室の、しかも仙人掌を蒐集したその一隅に心が牽かされるからである。この時わたくしの渇きを覺える眼精には素より植物としての仙人掌は映じないのである。どれもこれも不思議な幻覺に襲はれて美しい曲線の麻痺を示す蛇蝎類の姿だ。わたくしの胸にはセンジュアルな情念が湧いて來る。夢を見る。どこか遠い異國で、藝術的な傳説が實現される。塵もすゑない大理石の階段に裸體の女が日光を享樂する。女は慵い眼瞼を半ば開いて、柔らかな足の指先に這ひ寄る美しい蜥蜴を愛してゐる。――わたくしがこんな夢に耽つてゐるひまに、幾組かの見物人は、わたくしの側を通り越して往つてしまふ。
 紅い唇が驚異の聲を放つ。
「まあ、これが仙人掌」かう云つて、無意識の衝動に驅られたらしく同伴の女の肩に手をかける。だがその女は冷然として、
「仙人掌てわたし嫌ひよ。厭らしいわ。あら、あんなのがありますよ、そらあすこに」と云つたが、急に「さあ行きませう」と云つて、うながしたてた。
 しばらくして二人の華やかな笑ひ聲が大きな緑の間から洩れて來る。
 わたくしはまた温室内の蒸した淡碧の光線に浸つて、優曇華とも見え、毒茸とも見える花の姿を賞でながら、女の嫉妬といふことを考へて見る。
 わたくしが仙人掌に親んだのは、少年のころ、兩國の川開きの歸り路で、夜店からその一鉢を買つて來た時から始まつてゐる。それは偶然であつたとだけには思はれない。わたくしの藝術の途もまた當夜の光景と異常な美を欲求する同じ線の上にあるべき必至の運命であらうも知れない。

 兩國の川開きについてはこゝに多く云ふの必要を認めない。江戸時代の都會の趣味を集中した年中行事の名殘の一つも、今では殆どその美的精神を失つてゐる。夏の夜の都會の空も、耀くまゝに滅えてゆく精錬された色彩の雨の代りに、單調な電燈飾によつてその幽趣と諧調を破られてゆくかのやうに思はれる。光と色の微妙なるエフェクトを花火の技術から感ずるものは、その人自身すでに一個のアアチストである。韻律的な、そして即興的な技術の極致が暗碧の空に展開する。わたくしは花火の技術に於て印象主義の瞬時的な光影の眩惑を認める。
 殺伐な火藥の修錬され整調された變形がこゝにある。それはまた人間の贅澤な誇と歡樂を示すと共に、滅えてゆく銀光のすゑに夏の夜の哀愁を長く牽く。
 廣重の版畫が殘る。

 そして英吉利は大倫敦のテエムスの河のほとりで、「青と銀とのノクタアン」が描かれる。バッタアシイ古橋のシルウェットを月夜の灰碧の空氣の中に捉へた畫人は廣重の版畫に對する鋭い感覺で張りきつてゐる。更にまたクレモン・ガアデンスの煙火戲の夜、崩れ落ちる五彩陸離たる火光を、いみじくも繋ぎとめた「黒と金とのノクタアン」を見よ。老ラスキンをして理性を失はしめた前代未聞の藝術がこゝにある。
 官能の音樂、神經の詩がこれ等の夜曲の中に顫へてゐる。
 わたくしは好んでホヰスラアの描いた藝術の氣分を想像の綾に織りまぜて置いて、これを鑑賞すると共に、飜つて廣重の古調をなつかしむ。
 純藝術はどこまでも異端である。花火の畫を描いたホヰスラアは世間から山師と呼ばれてゐた。
「世俗と歡樂の途を異にしたこの人――異常なる模型の案出者――例へば火花に照らし出された顏面の如き奇趣ある曲線を、身邊に於ける自然の中に認めた人――この超然たる夢想家こそは第一の藝術家であつた。」―― Ten o'clock.[#地から2字上げ](明治四十三年)



底本:「日本現代文學全集 22 土井晩翠・薄田泣菫・蒲原有明・伊良子清白・横瀬夜雨 集」講談社
   1968(昭和43)年5月19日初版発行
   1969(昭和
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