の飛鳥地方へ古墳見學に出かけた。今木の雙墓を見てから、左手に高い道ばたの畠を指して、斯ういふ處によく石器があるものだと一寸黒い石を拾つたら、其れが實に正眞正銘の石鏃であつたのは嘘の樣な話である。此の日は此の奇蹟に魅せられて、到る處蚤取眼で石鏃を探しあるくと、欽明天皇の御陵前吉備皇女の御墓の前の畠でも一本、なほ雷村へ行く途中の畠でも一本と、石器發見の地名表に三四の新地名を加へることが出來た。攝津高槻の大學農場へ東伏見伯と一緒に行つた時、此の邊から石器が出ますと一寸足許を搖がすと、頗る上等なのが一本轉がつてゐたのも意外であつた。前に述べた各地の外、今一つ違つた處で拾つた石鏃は、亡くなられた坂口先生や榊原君と長崎縣の島原の吉利支丹の遺跡を歩いてゐる時、島原城址の中で黒曜石製を一本。西洋では七八年前北米合衆國ニウ・メキシコ州のペコスの遺跡を、キツダー氏に案内せられた時に一本、それ位であらう。
五
石鏃が人類の利器として出現したこと、即ち弓箭と云ふ飛道具が、投槍から進歩して發明せられたことは、丁度鐵砲が其の次に發明せられて戰爭の上にも狩獵の上にも、一大轉機を與へた樣に、人類の歴史の上には土器の發明に次ぐ文明史上の大發明であつたに違ひなく、舊石器時代には未だ石鏃はなく、新石器時代になつて始めて是が現はれるのである。而かも金屬器の時代に入つても、始めのうちはなほ使用せられて居つたことは、希臘ミケーネの墓から出てゐるのでも分かる。此の小形の石器はなか/\製作に技巧を要するので、容易に僞物は出來ない。私自身も子供の頃よく眞似て見たが、直ぐに割れてしまつて到底作られなかつた。ホームス氏などが、米國土人の間に殘つてゐた製作を調べて、これは黒曜石などを火にくべて脆くしたのを、骨器で壓しつけてへぐのであると云ふ。かの有名な僞石器製作家フリント・ヂヤックは一本の鐵の細い棒でかなりな所までやつてゐるが、未だ厚手のものしか出來なかつた。
[#「石鏃の分類」の図(fig42154_02.png)が入る]
六
石鏃の形式分類は、日本でもやつた人があり、西洋にもあるが、オチス・メーソン氏の本に出てゐるのは全く器械的であり、エヴアンス氏や、デシユント氏の方がよい樣に思ふ。要するに、三角形と柳葉形とが基本形で、それから雁股形や有柄状などのものが出て來るのであらう。此の形の相違に由つて、簡單に民族や文化階段などを分つ人もあるが、それは賛成しかねる。寧ろ各工人各工場などの癖に本づくのであらうと思はれる。エーブリー卿は北米其他の野蠻人の實例から、狩獵用には、※[#「竹/可」、38−6]と鏃とを一緒に拔き取り易い無髭形、戰爭用には拔取難い有髭形のものを用ゐると云つてゐるのは、多少理窟がある樣に見える。また石鏃は何處の國でも打製が多く、就中朝鮮には非常に精巧なものがある。私も先年慶州の川北面の丘陵上で、清野君や赤星青年などゝ一緒に、之を拾つたことがある。
七
石鏃の思出でも、いつの間にやら少し理窟に這入つて來さうであるから、これで止めることにしようが、とにかく四五十年も昔集めた矢の根石が、今日の私の石器時代研究に絲をひいてゐるのであるが、あの時の水晶も今なほ強い執着を殘して、近頃でも、朝鮮旅行中、慶州の南山では水晶採集に出かけ、金剛山では遂に大きな兩劍結晶のものを擔いで歸つたりしたことである。然るに數年前の正月清野君の家で、赤星青年と二人ジヤンケンを以て石鏃を分配し、私も二本ばかりを勝ち得たので、自分の家に歸つてから子供等に、ジヤンケンで頒けてやらうと云つても、一向欲しがらぬのには拍子拔けがしたと同時に、私の家に私同樣の考古癖者が居ないのに安心したことである。――私にも何か石器時代論を書けとの命令であるが、それは近頃あちこちへ書いたこともあるので、若い人々に讓つて、私はたゞわけもない此の石鏃の思出話を綴つて、御茶を濁すことにした。
[#地から3字上げ](ドルメン四ノ六、昭和一〇、六)
底本:「青陵随筆」座右寶刊行會
1947(昭和22)年11月20日発行
初出:「ドルメン」
1935(昭和10)年6月
入力:鈴木厚司
校正:門田裕志
2004年5月18日作成
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