時代の記念として殘つてゐる筈であるが、今一寸探して見ても分からない。

          三

 石器時代の遺跡を自ら踏査して石鏃を拾つたのは、河内の國府であつて、それは今から二十五年程前、京都の三高の生徒時代であつた。山崎直方先輩の書かれた古い『人類學雜誌』をわざわざ東京赤門前の、その頃あつた哲學書院といふ書店から送つて貰つて、それを手引きに國府へ行き、石鏃をはじめ石器をかなり澤山拾つたのは嬉しいことの限りであつた。それは今日京都の大學に收つてゐる。又その頃同窓の廣田道太郎君が貴船神社で、奧の院の御船石の附近から出る舟形石と云ふ御守を出すのを貰つて來た。それを見ると、全く柳葉形の石鏃なので、其後自分で貴船へ行き探しても見當らず、神社でもそんな事は知らぬと云ふのは、今に至るまで狐につまゝれた樣な話である。東京の大學へ行つてからは、明治三十五年の十月、水谷幼花氏と一緒に、品川權現臺の貝塚へ行つて、小さい石英のを一本拾つたのが最初、次は翌三十六年親友の故押田習君と一緒に伊豆の大島へ渡り、その頃は身投げの流行もなかつたので、無事に三原山の見物を濟まして野増村に降り、鳥居先生の論文で知つて居つた龍ノ口の海岸にある、溶岩流下の遺物を見に行くことにした。とある茶店で道を尋ねると、出て來たお婆さんが、今教へてあげるが、盥に水を取つてあげるから、行水をあびて行けとの親切――それ故これは夏休みのことゝ思ふ――さてお婆さんの子供か孫かの人に案内せられて、崖の下の溶岩の下を棒切れで一寸ホジクると、思ひがけなく赤くなつた土器片と共に、黒曜石雁股の大きな石鏃が一つ轉げ出た。その時の嬉しさは今も忘れることは出來ない。これも今大學にある。此の大島のと權現臺のとが、石器時代地名表の第三版の裏に、其頃寫生した圖がのつて居たから此處に掲げる。
[#「石鏃二つ」の図(fig42154_01.png)が入る]

          四

 石器のいろ/\とある中にも、石鏃ほど可愛らしくキレいなものはない。私は今でも時々石器採集に出かけ、ゾク/\と出て來る石鏃を拾ふ夢を見ることがある。これは夢のうちでも一番嬉しい夢である。七八年前佐賀縣のある遺跡へ行つて畠の中を探したら、二三十分間のうちに黒曜石の石鏃三四本を拾つたのも嬉しかつた記憶の一つであるが、それよりも不思議なことは、三四年前數人の學生を引率して大和
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