。既に十餘年の昔語となつたが、如舟博士と滿洲を歩いた時のことである。熊岳城から蘆家屯附近にある漢代頃の貝墓を發掘して、一夜遲くトロに乘つて高梁畠を過ぎ温泉へ出掛けた。十二時過ぎに案内せられる儘、川原の中にあるバラツク造りの湯に這入つた時は、如何にも夢の樣とも言はうか、狐につまゝれた樣とも言ふ可きか。而かも其の湯槽は肥溜でなく靈驗あらたかなる温泉である。但し此の邊には顏の白い狐が化けて出るとは其後聞き及んだことである。併し今は此の温泉の設備もスツカリ變つてしまつたことゝ想像せられる。
湯崗子の温泉へは千山登りの際に一泊した。これは立派な洋館造りの旅館であつたが、湯の色は熊岳城に比してキタない。こゝから一人の支那人を雇ひ、荷馬車に乘つて、ゴロ石の河原通を一人千山へ登つたのは思出深い旅であつた。南畫の山水にも似た山峯には樓閣が點綴せられ、石徑を高く究むれば、寺觀は巖石の頂に現はれると言ふ奇拔な景色を賞し、山上の客舍に蝋燭を點じて、たゞ一人毛布に包まつて眠に就いた時の淋しさ。案内の支那人は遠く去つて寺で宿ると言ふ。若し千山が馬賊の巣窟と、はじめから聞いて居つては此の旅は流石に出來なかつたらう。「明天點鐘爾來」と怪しげな支那語が通じたと見えて、翌朝早く件の支那人が來た時には蘇生の思ひをした。温泉に關係もない旅行談は餘り過ぎると叱られるから之で止める。
六 日本の温泉
日本の温泉に私の這入つたのは、山形縣上の山温泉が抑も最初で、七歳の時である。隣家のT氏の家族に連れられて行つたと覺えてゐるが、會津屋と言ふ旅籠の廣い浴槽で泳ぎ廻つた嬉しさ。私の少年時代の追憶として、T氏の令息との友情と共に忘れ難いものゝ隨一である。會津屋の婆さんは、夙くの昔に世を去つたのであらうが、當時一歳下のN君は今や敏腕の外交官となつてゐる。伊豆の熱海から伊東、修善寺、湯ヶ島の温泉と廻り歩いたのは、大學時代の修學旅行であり、箱根、鹽原の温泉は中學の生徒を引率して行つたのが始めである。城の崎の温泉は應擧寺を見に行つた時に始めて這入り、薩摩指宿の温泉は石器時代の遺跡を掘りに行つて經驗した。此の開門嶽麓の温泉は、定めし石器時代の人民も知つて居つたことであらうが、日本中で今日でもなほ石器時代の温泉と言ふ可き原始的の處である。加賀の山中や豐後の別府は、近年漸く足を踏み入れた。
併し私は必し
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