達は階上の大きな座敷に請ぜられると、○君舊知の妓|鶴《チル》さんが出て來て泡盛の杯を酌み、蜜柑等をむいて呉れる。別に食物等を多く出すのではなく、その代り鶴さんの朋輩の女達が、三四人入れ代り立ち代り這入つて來て接待する。私達は鶴さんに踊りを所望すると、他の老妓の蛇皮線に合せて、彼女は例の紺ガスリ、前結びの帶、櫛髮風の姿で、いろ/\の踊を舞ふ。其の手振り足振りの優しさは、此間劇場で見たのとは又違つた御座敷のしめやかさが漂ふ。私の短い沖繩の旅も今宵限り、南島の情緒溢れる此の島に、又何時訪ね來ることが出來ようかと思へば、可憐な島の女の舞踊に、しみ/″\と名殘が惜まれるではないか。僅かばかりの纏頭にも、彼女達は感謝を捧げて、一時間ばかりの後私達は鶴さんの握手に送られて寶來館へ無事歸り著いた。
辻の遊廓は所謂遊廓の目的の外に、實はカフエー、レストラン、サロンなどの各種の設備としての意義をも具へてゐる處が面白い。將官教員などの宴會も以前は多く此處で開かれ、甚しきは婦人會さへ催されたことがあると言ふ。蓋し最も輕便安値であり、而かも最も朗かな氣分を與へるからであらう。一方から言へば各種の社交機關が、未だ分化しない状態にあると言つても宜いが、同時に又女連は女給であり、藝妓であり、又娼妓である凡ての性質を保存してゐる處に善い點がある。從つて此の遊廓に出入することは、必しも士君子の排斥を買ふことでないとも聞いたが、歸洛後伊波君の『沖繩女性史』を拜見すると、斯の如きは明治維新後、内地から獨身者の縣官などが來て、自から馴致した惡風であると書いてあつたので恐入つてしまつたが、それにしても彼等は朝鮮の妓生と共に、昔の白拍子的の遺風を傳へてゐる、現代に於ける可憐なる一つの存在である。之を呼ぶに尾類《ズリ》の文字を以てするのは、如何にも殘酷な氣持がすると思ふのは私ばかりではあるまい。
二一 識名園、沖繩の別れ
昨夜遲く宿へ歸ると、病院の中川君が待つて居られて、古い琉球の型染の衣裳や、下手物の陶器などを持つて來られ、私は坐ながらにして好箇のお土産を獲ることが出來た。さて私の沖繩滯在の最後の日は午前中西山君に伴はれて、小竹君、島袋君と共に、首里の西南部にある尚家の南苑識名園を拜見することが出來た。規模は必しも大きくないが、大體は日本風の庭園で、心字形の池の中島には六角亭があり、
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