用事をまかせて、又自分の部屋に戻ると、ふたたび、父についての思い出をたぐりはじめました。父と私は、新緑の奈良や、紅葉の嵯峨野をよく散策しました。古寺を尋ね、その静かなふんいきの中で色をたのしんだり、形をながめたりしたのです。
「母様とね、まだ結婚して間なし、こうやって、奈良や京都をあそんだ事があるんだよ。母様は、つまらなくて仕方がないという風でね、父様が一生懸命、建築の話をしているのに、居睡りはじめたこともある。かなしかったよ」
 そう云って、父はさみしく笑ったこともありました。でも、母としても父には不満があったわけなのでしょう。東京で比較的自由な娘時代を送った母にとって、父の趣味は理解出来ず、ダンスや音楽や、そういう方面にうとい父は、ばんからな、やぼな男だったでしょう。公使館のパーティの話をよく私はきかされました。馬に乗って軽井沢をかけまわったこと、大勢の男友達とスキーに行ったり、ヨットにのったりした青年時代。父と母とは、とけあう事が出来なかったのは、当然だったでしょう。そして父は母にないものを私に求めました。父の持つ趣味は私だけが又持っておりました。兄も弟も、母のものばかりを受けておりました。けれど私は、派手なこと、つまり母の部分も持っておりました。
「シャンデリヤや香水が好きよ。ろうそくの灯で、ぽつりぽつり喋ることも好きよ。お寺であのお線香のにおいをかぐのも好きよ」
 私はこう云ったこともありました。夕方になって、自動車で兄と弟が帰って来ました。兄は痛々しいほど泣きました。
「僕が、こんな体で申し訳ございません。父様。父様。屹度《きっと》もう一度家を興します。僕が丈夫になって、やってみせます。父様、きこえますか、父様、お返事をして下さい」
 死骸にむかって真面目に必死になって言葉をかけている兄の姿に、私はわずかばかり心打たれました。
「死人に口なしさ」
 弟がため息と一しょにそう云いました。私はだまって弟に目くばせしました。兄に弟のすっかり変った様子をみせたくなかったのです。御通夜の人達のために、私は女中と御料理をいたしました。火鉢を並べたり、御ざぶとんを出したりいたしました。以前、執事をしていた豊島が来て、兄や叔父達と葬儀の相談をしました。死亡通知の印刷のこと、新聞掲載のこと。遺産のこと。勿論遺産と云っても、今住んでいる土地家屋と菩提寺の他は何もありません。そんな話が随分長くつづきました。あれこれ小さい道具を買いととのえることだけでも意外に多くのお金を使わねばなりませんし、葬儀の費用は、とにかく、知合先や会社関係より借用することにして予算をたてたりもしました。私は、ふと松川さんのお祖母さんの葬儀の時を思い出しました。父には金歯が四五本もあるのです。あの話の時の父の苦い顔を思い出しました。金歯のことは黙っておりました。御通夜の人達よりはなれて部屋へ戻ると、私は信二郎に頼まれた欠席届を書くことに気付いて、硯箱をあけました。墨をすりながら、私が小学校の頃父に呼びつけられて硯の墨すりをさされたことを思い出しました。たくさんの墨水をつくります。お皿にあけてはすり、あけてはすりました。そうです。松の絵にこっておられた時でした。最近は小さい淡彩の絵ばかりでした。

 ある日――
 それはよく晴れた静かな午後でした。父はお骨となりました。死の一日おいて翌日でした。東さんの好意で、売れていなかった白磁の壺を葬儀の日だけ借りて来て、それを位牌の前に置きました。父の以前関係していた会社の人が多勢来て、型通りのおくやみを流暢にのべてくれました。菊の花が部屋中に香り高く咲き、その中に婦人の喪服の黒さが目にしみました。兄を私の部屋にやすませてしばらく二人だけでおりました。
「兄様、しっかりね。信二郎だってもう大きいし、兄様に何でもおたすけしますわよ。とにかく今はお体のことだけをかんがえてね。わずかな株や何かで、何とか致しますから、心配なさらないでね」
「雪子に済まないよ。どうにも仕様がない。雪子に何でもたのむから、母様と力を併せてやってくれ。兄様もなるべく我儘云わないから」
 兄は弱々しくそう云いました。八卦見の云ったことは当りました。家に大事があったのです。けれども、私の生き方は変りません。私の意志。私のエゴイズム。私の自由。私はそれを押えてこれからも大きな荷物を背負います。それがつとめだと、宿命だと考えねばなりますまい。
「僕が死んだら、ショパンのフィネラルかけてね」
 兄はその時、ぽっつりそう云いました。信二郎がはいって来て、
「僕が死んだら葬式なんかせんでいい。死体をやいて、その灰を海へ捨ててくれ。パーッパーッとね。その時そうさね、高砂やでもうなるがいい」
 私は信二郎に、あちらへ行けと申しました。兄が、急に苦しくなったと云い、すぐ洗面器
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