のことをすっかり忘れております。
「姉様、僕アルバイトやろうと思うんだけども」
その時、又私の部屋にはいって来た信二郎は、小さな声でそう云いました。
「何の?」
「ジャズバンドさ。スティールギター」
「いつ覚えたの」
「いつだっていいさ、大したもんなんだぜ」
「いいわ、おやんなさい。でも夏のこともあるんだからよく考えてからよ」
夏のこととは、野球場でアイスキャンデーをうりあるくとはりきって、いよいよ、そのアルバイトの初めの日、いさんで西宮へ出かけた信二郎は、からのキャンデー箱を肩からつけて二三歩あるいたなり、もう動けなかったという話であります。「それみろ」父は申しました。信二郎は今年新制大学にはいりました。一人前に角帽をかぶっているのに、末子で、いつまでたっても一人でどんどん事をはこぶことが出来ません。
「母様にはときふせてあげましょう。父様は、金城鉄壁だけれど、何とかなるでしょう」
「ダンケ。頼むよ」
父が、嗅薬を用いたとみえて、きなくさい臭いが家内中にただよいました。それから私は信二郎と二人で、さいころを始めました。私が勝てば元々で、弟にまければ、先刻の煙草一本まきあげられるのです。私は何のことはない、損なことですけれど、つまりさいころを転がすこと自体が面白いのです。
あくる日――
私は兄の見舞いに病院へ行きました。たった一人の兄は信一といって大学に通っておりましたが、戦争中の無理が原因となって、一昨年の夏、肺結核のため入院したのでした。要心深い細心な人ですから、入院して以来、一歩も外へ出ずに、じっと養生しているのでしたけれど、この病気は簡単にはなおらず、今も気胸をつづけて入院しているのでした。
長い廊下をつきあたるとすぐその端の部屋が兄の病室でありました。庭に咲いた菊を五六本、新聞紙に包んだのを私は持っております。ノックをすると低い声で返事がありました。
「おはようございます。いかが、御気分は」
「やあ」
兄は上半身を起して私の方をみました。
「きれいな菊、中庭のかい」
「ええそう、香りはあまりないけれど」
私はコスモスが枯れたままつっこんであるペルシャの青い壺に、その菊を活けました。白いはなびらときいろい芯とがこの青い壺にはよくうつります。柔い丸みの壺の肌を、兄は大変好んでいて、売れば随分の価になるものでしたけれど、兄のためにおいてあるので
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