そんな話が随分長くつづきました。あれこれ小さい道具を買いととのえることだけでも意外に多くのお金を使わねばなりませんし、葬儀の費用は、とにかく、知合先や会社関係より借用することにして予算をたてたりもしました。私は、ふと松川さんのお祖母さんの葬儀の時を思い出しました。父には金歯が四五本もあるのです。あの話の時の父の苦い顔を思い出しました。金歯のことは黙っておりました。御通夜の人達よりはなれて部屋へ戻ると、私は信二郎に頼まれた欠席届を書くことに気付いて、硯箱をあけました。墨をすりながら、私が小学校の頃父に呼びつけられて硯の墨すりをさされたことを思い出しました。たくさんの墨水をつくります。お皿にあけてはすり、あけてはすりました。そうです。松の絵にこっておられた時でした。最近は小さい淡彩の絵ばかりでした。
ある日――
それはよく晴れた静かな午後でした。父はお骨となりました。死の一日おいて翌日でした。東さんの好意で、売れていなかった白磁の壺を葬儀の日だけ借りて来て、それを位牌の前に置きました。父の以前関係していた会社の人が多勢来て、型通りのおくやみを流暢にのべてくれました。菊の花が部屋中に香り高く咲き、その中に婦人の喪服の黒さが目にしみました。兄を私の部屋にやすませてしばらく二人だけでおりました。
「兄様、しっかりね。信二郎だってもう大きいし、兄様に何でもおたすけしますわよ。とにかく今はお体のことだけをかんがえてね。わずかな株や何かで、何とか致しますから、心配なさらないでね」
「雪子に済まないよ。どうにも仕様がない。雪子に何でもたのむから、母様と力を併せてやってくれ。兄様もなるべく我儘云わないから」
兄は弱々しくそう云いました。八卦見の云ったことは当りました。家に大事があったのです。けれども、私の生き方は変りません。私の意志。私のエゴイズム。私の自由。私はそれを押えてこれからも大きな荷物を背負います。それがつとめだと、宿命だと考えねばなりますまい。
「僕が死んだら、ショパンのフィネラルかけてね」
兄はその時、ぽっつりそう云いました。信二郎がはいって来て、
「僕が死んだら葬式なんかせんでいい。死体をやいて、その灰を海へ捨ててくれ。パーッパーッとね。その時そうさね、高砂やでもうなるがいい」
私は信二郎に、あちらへ行けと申しました。兄が、急に苦しくなったと云い、すぐ洗面器
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