急に泣けて来た。そして夫の肉体がありありと胸にうかび、夫のにおいを思い出した。私は行雄の手をにぎると、そっとふとんの中へ入れてやり、反対側をむいて目を閉じた。孤独って何て嫌なものだろう。私はそう思った。そして、作衛とおはるのことも極自然なことのように思えた。そして二人をとがむよりも、自分自身があわれでたまらなかった。未亡人、なんといういやな言葉だろう。女がひとりで生きてゆく、なんとかなしいことだろう。私は一晩中、ねむれなかった。枕がびっしょり涙で濡れた。
けれども翌朝になると、私はふたたび二人に対して憤りを感じないではいられなかった。おはるに暇を出そうとも思った。だが個展を前にひかえてこのいそがしいのに、はっきりした理由もなくおはるに暇をやるのは馬鹿げていた。あまりにもそれは感情的であり、それが私の嫉妬ともひがみともつかぬものと気附いた時、暇を出すことを打消してしまった。ところが丁度、その一週間も後のことだったろうか、朝食後、私は、「ドビュッシーの月光に寄せて」という着想でネクタイを書いていた。あの透明な、ガラスのうすい器のような感じを出そうと、絵具をあれこれまぜながらたのしんでいた時、おはるの母親という人が訪ねて来た。はるばる四国からやって来たというその媼は、おはるに似て不器量だったけれど、落ちついた物腰で田舎に住む人に珍しく品があるようだった。彼女が私に云うのは、おはるに縁談があり、それがとってもいい条件なので一応おはるを引取らせてほしい、相手は郷里の人だが神戸の船工場につとめている人で、きっと神戸に住むと思うからおいそがしい時は又御手伝いに伺わせて頂きます、ということだった。あまり、とっぴなことで私はだまったまま媼の顔をみていたが、個展のいそがしさが目の前に迫っているのを思い浮べながら、しかし、この機会を失ったら又こちらからきり出しにくくなると思い、おはるに暇を出すことを承知した。おはるはその青年を一度みたことがあるとかで、彼女自身嫌でないらしく嬉しそうに荷物をまとめたりしていた。作衛はその時、丁度遠方へ用足しに出ていた。というのは、私の友人で京都に住む人が、私の製作の材料に南蛮絵ざらさの原色版を貸しましょうかと云って寄越してくれたが、私は送ってもらう暇も惜しく、作衛を朝早く使いに出したのであった。私は作衛のいなかったことを喜んだ。おはるはけろりとしていて、私に最期のおつとめだとか何とか云って、家中をあらためて掃除し、台所の用具をピカピカ光らせたりした。今夜は大阪の親類へ泊るという、おはるとその母親に、私は近所の肉屋へ行雄を走らせ御馳走した。そして祝儀を包み、帯じめの派手になったのを一本、半襟もつけておはるにやった。
「いろいろ御世話になりました。何にもお役にたちませんで。ぼっちゃんお元気で。又神戸へ出ました折にはお訪ねいたします。本当にお名残り惜しいことですが……」
といつもの調子でべらべらしゃべりたてたおはるは玄関で母親と何度も頭をさげた。
「いずれ大きな荷物は田中に取りに寄越しますから」
母親は、もうおはるのはなしがきまったかのようにその夫となるひとを田中と呼び捨てた。私は思わず苦笑しながら行雄と門まで見送った。おはるは作衛の作の字もいわずに行ってしまった。うらうらとあたたかい二時間、私は何かしらほっとした気持で製作にかかったのだった。
その夜帰った作衛、私はおはるのことを告げた時の作衛の顔をはっきり覚えている。作衛は確かにおはるの行為を憤った。
「何故俺に一言云って行かなかったんだ。あんまりだ。あんまりだ」
と作衛はいきりたった。そして作衛は、おはるのこれから先をみてやるといって約束までしたのだと云った。始めは彼に甘えて、疲れるとやれ腰をもめ、脚をさすれといい、作衛はおはるをしんからかわいがって云われた通りにしていたが、そのうちだんだん好くようになったのだと云った。そしておはるも作衛と一生を共にするとまで云ったと附け足した。私はとにかく、「おはるのためにお前はもう黙ってなさい」とこの時はじめて叱った。
「でもあんまりです。一言の挨拶もなしに、行くなんて、わしを何と思っている、わしはおはると……」
作衛の言葉尻を追究することはどうしても私には出来なかった。それは当然わかっていることだった。その夜、作衛がおはるの居た部屋で長い間しょんぼり坐っているのを見た。死んだおはるの位牌の前に坐っていた作衛よりは、やはり年をとっていた。それからまもなく、おはるの荷物をとりに若い青年が自転車に乗って来た。真面目そうないい感じの人でおはるにはもったいないとさえ思った。丁度、この時も作衛は居らず無事に青年は帰って行った。
そして一カ月、私は夜もろくに寝ずに出品の製作にはげんだ。昔、夫と一しょにききに行ったコンサートの曲目
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