ンはだんだん減って行った。あの事件の時、私の意見に賛成した少女だけは私にまだ、すみれの花のカードなどくれた。私はゴヤの絵のような彼女をかわいがった。私はだんだん学校に興味を持たなくなった。そしてつまらない学課の体操や裁縫や商業の時間は殆ど欠課した。体があまり丈夫でなく、戦時中の疲労がその頃になって出て来て、私は歩くことさえ苦痛であったから、医者の診断を出して時々の欠課を大目にみてもらっていた。私は休養室で寐ながら、青空をみていた。小さな翻訳小説をふとんの中に押し入れてよんだりした。だんだん大胆になって、早退し、帰りに古い洋ものの活動写真をみに行ったりした。不良少女はほんものになって来た。私は一日学校をさぼって京都の寺院を訪ねたりすることもした。家には内緒で欠席届をかいて出した。私は、空気が自分の体に痛みを与えるように感じだした。秋の空気は真空のようであった。私は自分が生きてゆくことが非常に不安になりだした。何故生きるんだろうかと考えた。そこには何も幸福らしい幸福は発見出来なかった。私は、勝手気儘に生きたいと思いながら、それが不可能であることを知っていた。規則。法律。そして、未だに封建的な固いからをかぶっている家庭。学校での興味のない生活。数学をといても、商業の形式をならっても私とは凡そかけはなれた無理な勉強であった。私は何も喜びを見出すことが出来なくなった。束縛を嫌い、しかもその束縛からぬけ出る方法を知らなかった。私は、自分の感情だけで自由奔放に生きてゆきたいのだ。それなのに、家庭。学校。社会。すべて自分の感情を抑制し、無視し、自分らしい自分を伸ばすことが出来ないで生活しなければならない。人間とは、何とつまらない生活をしているのだろう。私は何事もする元気を失った。私は数珠を最期的に手から捨てた。私はすでに、神や仏を信じてはいなかった。称号を唱える刹那に於いても、不安と疑いの念がむくむくと心から湧いていた。私はすべてから虚脱状態にはいってしまった。私は仏教の書物を売ってしまった。そのわずかなお金で私は街に出た。街といっても戦後の殺風景なバラック建の店屋である。そして闇市。ここには中国人の濃い体臭と、すえた食物の臭いがぎっしりつまって細い道の両側は喧噪としか思われなかった。私は何か欲しいものはないかと考えた。何もなかった。夕ぐれ、私は絶望と混迷と疲労とで家にかえった。その日から、私は死にたいという衝動的な欲望が連続して頭の中をからまわりした。私は学校をずっと休んだ。国語の教師や、友達が見舞いに来た。私は、死にます、と云った。彼女等は冗談でしょう、と云った。私も苦笑した。死ぬ手段を考慮しておらなかった。私は首をくくろうと思った。「にんじん」の一場面が頭に浮んだ。私は、二三日後、それをこころみた。然し死ねなかった。私の行動に気付いた肉親達は私を警戒した。説諭もうけた。親は、自分達が苦労して育てたということをくりかえしくりかえし云った。そのことが私を余計腹立しくさせた。私は、しかし、死ぬ死ぬと云ったまま一週間死なないでいた。私は死ぬことも出来ないのだった。死ねば、死体がのこるだけだと思っていたけれども、唯、死ぬ方法が見当らなかったのだ。
 私の手許に、生きて下さい、という手紙がたくさん舞いこんだ。田舎へ帰ってしまっていた前の国語の教師からも、
――私は何もあなたを慰め、あなたを説き伏せることは出来ない。でも、どうか、生きていて下さい。生きていて下さい。――
と云って来た。友達からは、
――あなたが死んでしまったということを想像した時、私はもう泣く涙さえないでしょう。あなたと御目にかかれるだけが私の幸福なんですもの。私をかわいそうだと思って頂戴。――
 太った国語の教師からは、
――常識を嫌うあなたをわかることは出来ますが、あなたの才能のためにも生きてほしい。もう少し、あなた自身をかわいがっておやりなさい。――
 この手紙は一番滑稽とさえ思われた。私自身を愛することなど、どうして出来よう。私には、世の中や人々や常識を嫌悪すると同じ位、自分自身を嫌悪しているのだし、自分に若し才能があるとしてもそれは生きてゆく上に何の役立もせぬものだから。
 白雲や気儘気随に空を飛ぶ
この掛軸を常に居間にかかげている私の好きなある婦人からは、
――夫にさきだたれて十三年。孤独の中に生きているのです。誰かを愛して、心から熱愛して、そのために生きること。あなたも愛することです。――
 という紫の紙にかかれた手紙が来た。死んだ人を愛しながらまだ生きてゆくという彼女の生命の血が、私には不思議にさえ思われた。彼女は、私の友達の母であり、その友達以上に私と親しくしていた。未亡人もやはり、世の常識をきらっていた。そして、自分は今まで白雲のように生きて来たのだと云っていた。彼女は彼女の恋愛のため、家から縁をたたれ、たった一人の夫のみで生きて来たのだったと云った。私にとっては、亡夫にあやつられている魂のない人形のように思えるのだった。そして、ちっともそう云った生活は自由でないと思った。無形の力に縛られているのに、彼女はそれを苦しまないでいる。まだ恋愛を知らない私は彼女の気持を理解することは到底出来ないでいた。
 私を除いての家族会議が毎夜行われているようだった。私は学校へ行かないし、親にとってみれば今までかつてない事件だったろう。私はどうなってもいいと思って毎日ごろごろ寐ころんでいた。
 母の意志で、私は大阪にある音楽学校へゆかされるようになった。もう後五カ月で卒業だという間際である。私は変った世界に飛びこまされることを拒否出来なかった。或いは其処に何か見出すかも知れないという淡い期待があったわけなのだ。私は始め聴講生という名目ではいった。ピアノと声楽とを修めるのだった。私は殆ど手がかたくなってしまっていたし、練習曲をしていなかったからまるで何もひけなかった。隣の教会のぼろぼろのピアノで毎日下さらいをせねばならなかった。朝、通学に二時間たっぷりかかる。そして、小さな練習室にはいってガンガン鳴らす。音楽理論や作曲法や実技がある。そして又二時間たっぷりかかって帰る。
 その生活は最近の女学校生活の時より、もっと不愉快であった。凡そ音楽的な感覚のふんいきと云うものは見られなかった。私はよく狂人にならないことだと不審に思った。防音装置がたしかでない練習室なので、隣や向いの部屋のピアノの音が絶えず耳にはいる。バッハやショパンやエチュードが、ごったがえしになっている。だからそれぞれ、ピアニッシモはそのままフォルテを継続してひかねばならない。戦争中のあの弾の音よりも、もっとかなしい音である。それにピアノはがたがたで狂っている。私は他の生徒が平気なのが不思議で仕方なかった。音楽ではなかった。街の雑音の方がまだしも音楽的であった。私は一週間目に行く気がしなくなった。作曲法や理論の時間だけ顔を出し、他の日は毎日大阪で映画をみてかえった。朝家を出て、かの未亡人のところで一日遊んでいることもあった。冬休みが始まると同時に私はその学校もよしてしまった。私は神経衰弱になっていた。熟睡することが出来ず絶えずバッハのインヴェンションが頭の中にぐるぐるまわっていた。楽譜をよむことさえ出来なかった。何故ならば、五本の線が波打ってみえ、そこに踊っている黒い玉は不均等な姿勢でみえかくれした。私は楽譜を床へたたきつけ、ピアノにさよならを宣言した。母は私の一流ピアニストとしての舞台の姿を常に心に描いていたのだと云って歎いた。しかし、私の精神状態では、これ以上ピアノと取組むことは不可能であることを認め、強制すれば、又自殺しようという気になることを恐れて私を暫く自由にさせることを父や兄と相談の上でゆるしてくれた。私は、わずかなお金をもらっては、郊外へ散歩に出かけた。そして、詩ばかりをよんだ。朔太郎を私は愛した。その頃、詩をつくることもした。ある詩人が私の詩をみて、朔太郎が好きですね、と云った。それほど私は朔太郎にふれ、朔太郎から何ものかを受けていた。私は単身上京した。しかし流暢なアクセントになじめないですぐに帰って来た。私はやはり死に度いと思っていた。感傷ではなかった。唯、私は苦しみから逃避したかった。苦しみなんか、その年齢で全くナンセンスだと常識家の兄は嘲笑した。しかし、私の年齢でその苦しみは絶大のものであった。私は、自分の思う通りに生きてゆきたいと思い、それが不可能であることを理解していたのだ。それに私には力がなかった。根気や忍耐することが出来なかった。私は私流の考えで、戦争中の自分が羨しいとさえ思った。あの頃の余裕のない生活の方がまだしも楽であった。私は自分を磨滅させるようないそがしさがほしいと思った。いそがしさに自分の存在がなくなれば結構だと思った。自分を意識しないで生きてゆけるなら、それは最も楽なことだと考えた。私は就職を希望した。父母は真向から反対した。彼等には、どっしりと居据っている門構えが、頭の中に消えていなかった。御家の恥辱。これが第一の反対意見であり、又私の感情的に瞬間のスリルを求めて社会に出ようとしていることは不真面目だと叱られた。私はその希望が不真面目だか、真面目だか、私自身判断は下しかねた。あたり前に云えば、女学校を自発的に中退したのも不真面目かも知れないし、学校中、欠課や欠席をして、映画をみたり、京都や奈良を散策したことはやはり不真面目。それに、私は喫煙するようになっていた。これは未成年であるから、最も法律にふれる位の問題。私の今までの行動は、客観的に考えれば、不真面目と云われることばかりである。しかし、その時、その時、私は自分の行為に対して自分の感情は非常に真実であったことは確かなのだ。真面目に自分を考えている。今度の勤めたいというのも、生きなければならないという無条件の標語を無理につくりだして、そのために就職することが必要になったわけだから私には私独特の云いわけがあるのだ。私は、父母に内緒で新聞広告を切抜き就職口を探して来た。履歴書をかいて、ある羅紗問屋に面会にゆき給仕になった。もう、父母は唖然としたまま私に何らの口出しをしなかった。大寒の最中であった。よれよれの紺の上衣を着、ほこりっぽいズボンをはいた私の青い皮膚はかさかさしており、目はどんより曇り、眉間や唇の端は、たびたび、ぴりぴりとけいれんし、あの子供の頃の英雄ぶりは、微塵もみられなかった。当時、十六歳である。

     第七章

「失業者が、毎日の食べるものも食べられないで、職業安定所の前にうろついているのをみたことがあるかね、ふん」
 これが私に与えられた店員の最初の言葉であった。勤続十年の太った女秘書が、私をかばってくれた。
「石岡さん、そんな考え方はいけないわよ。いいとこのお嬢さんでも、どしどし、社会へ出る経験しなくちゃ」
 有難い誤解であった。私は勇気のある社会見学の近代女性として、彼女の眼にうつったらしい。
 社長の実弟で低能に近い、「分家さん」と呼称するところの重役は、私をうっとしい[#「うっとしい」に傍点]娘だと云った。しかし私は、にっこり笑ってみせる術をすぐに覚え、彼から忽ち気に入られた。
 その日から私は忠実ぶりを発揮した。戦災にあって残った倉庫を改良し事務所にしているほこりっぽいところを、毎朝殆ど一人で掃除をした。この会社のおえらえ方は、みな丁稚上りであったから、細いことにいちいち気付いて、若いものはしかられ通しであった。私の仕事は、掃除と御茶汲みと新聞をとじたり郵便物を整理したりの雑用であり、おもに秘書の命令で働きまわった。
 指先が真っ赤になり、がさがさの手がじんじんする頃、他の女店員達は通勤する。そうして申訳に箒やはたきをもったり、花の水かえをやる。おひる近くになると、七輪に火をおこして、おべんとうを暖めたり、火鉢に火をつぎ足したりする。得意先や、日本一だという毛織物会社の人が来ると、――この会社の一手販売をしている卸売業なのである――上等の御茶を、上等の茶器を使って出す。お湯はたえずたぎ
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