彼女は彼女の恋愛のため、家から縁をたたれ、たった一人の夫のみで生きて来たのだったと云った。私にとっては、亡夫にあやつられている魂のない人形のように思えるのだった。そして、ちっともそう云った生活は自由でないと思った。無形の力に縛られているのに、彼女はそれを苦しまないでいる。まだ恋愛を知らない私は彼女の気持を理解することは到底出来ないでいた。
 私を除いての家族会議が毎夜行われているようだった。私は学校へ行かないし、親にとってみれば今までかつてない事件だったろう。私はどうなってもいいと思って毎日ごろごろ寐ころんでいた。
 母の意志で、私は大阪にある音楽学校へゆかされるようになった。もう後五カ月で卒業だという間際である。私は変った世界に飛びこまされることを拒否出来なかった。或いは其処に何か見出すかも知れないという淡い期待があったわけなのだ。私は始め聴講生という名目ではいった。ピアノと声楽とを修めるのだった。私は殆ど手がかたくなってしまっていたし、練習曲をしていなかったからまるで何もひけなかった。隣の教会のぼろぼろのピアノで毎日下さらいをせねばならなかった。朝、通学に二時間たっぷりかかる。そして、小さな練習室にはいってガンガン鳴らす。音楽理論や作曲法や実技がある。そして又二時間たっぷりかかって帰る。
 その生活は最近の女学校生活の時より、もっと不愉快であった。凡そ音楽的な感覚のふんいきと云うものは見られなかった。私はよく狂人にならないことだと不審に思った。防音装置がたしかでない練習室なので、隣や向いの部屋のピアノの音が絶えず耳にはいる。バッハやショパンやエチュードが、ごったがえしになっている。だからそれぞれ、ピアニッシモはそのままフォルテを継続してひかねばならない。戦争中のあの弾の音よりも、もっとかなしい音である。それにピアノはがたがたで狂っている。私は他の生徒が平気なのが不思議で仕方なかった。音楽ではなかった。街の雑音の方がまだしも音楽的であった。私は一週間目に行く気がしなくなった。作曲法や理論の時間だけ顔を出し、他の日は毎日大阪で映画をみてかえった。朝家を出て、かの未亡人のところで一日遊んでいることもあった。冬休みが始まると同時に私はその学校もよしてしまった。私は神経衰弱になっていた。熟睡することが出来ず絶えずバッハのインヴェンションが頭の中にぐるぐるまわっていた。楽譜
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