も消えてゆく。強いてひたすらに思ってみたりすることも興味ない。まだ二十歳まで二三年あるというのに、私はひっつめ髪をし、黒っぽい服を着、化粧すらしないで家に引籠っていた。
 家族は私の変貌に半信半疑の目をむけていた。しかし一種の落つきのようにみえる私の態度に安心もしている様子であった。
 私はその頃、はじめてのように自分が女であることを意識しはじめた。いや、それまででも、会社に通っている頃、何となく化粧して手鏡にうつる自分の顔を観察してみたり、歩く時の姿勢に気を配ったりしたものだが、本質的に女性ということの内部へはふれていなかった。私は時折日本の女流作家の随筆など拾いよみした。けれど、そこに見出される女性は全く精神的にアブノーマルであるか、そうでないものは、あまりにも生活にむすびついた唯、身の周辺に刺戟された女性をしか、発見出来ないでいた。もっと奥底に流れるものを知りたがったのに、それ等は私を満足させなかった。
 私は自分をみたり、母親や女の人達の考えることや行動に注意してゆくうちに、それが滑稽なほど、男性や或いは生活によって巧みに動かされ、丸くなったり四角くなったりすることに気付いた。特殊な場合があったとしても、それは世間的に通用しなく、弱さを無理にカヴァーして意地をはっているようにしか思えなかった。私は両者ともひどく軽蔑した。そして自分をもその中にふくみこんで自己嫌悪した。
 女が鏡をみるのは、自分をみると同時に、自分がどんなにみえるのかを見るためだ、とある作家が云っていた。私には、それぞれの女性が、たえず自分がどんなにみえるかのために、あらゆるポーズを試みているように思われた。女が其の恋愛をしてみたところで、それは真の恋愛をしているその瞬間の快楽よりも、そうすることの得意さ、人の目に映じる自分の姿に対する自己満足にすぎないように思われた。(それが女性の快楽であるかもしれないが)今まで、涙ながして何度もみた恋愛映画に於いても、私は思いかえしてみて、そこにあらわれたいろいろの女性は悉くそう云った自己満足のように思われた。それがハッピーエンドにならなくとも、女は又、その悲劇であることを誇らしげに吹聴し、苦しみもだえることは、苦しみもだえてみせることであるにちがいなく、恋愛でない場合にしても、女流作家が小説をかいて発表するのも、女代議士が立候補するのも、同じように本当の
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