の事件を持出しました。私はそんなことどころじゃなかったのです。冷酷なんだ。彼は私に云いました。ええそうよ。私自分自身、嫌な思いを我慢するのは出来ない、ってこたえました。私は実際、男に同情など持っていませんでした。今考えてもそうなんです。卑屈なのはとてもきらい。彼は、とても巡査に同情していました。そして世の中ってあんなものだ。俺達の世界でも、そうなのだと云うのです。ああ私は、卑屈に生きることを認めていることに対して、少し憤りました。でも黙っていたのです。彼は、話をかえて帰りたくないなど、度々云うものじゃない。云うな、と怒号しました。喫茶店は満員です。大勢の人がこちらをみていました。でも私は別に彼の態度に干渉しませんでした。とにかく、やたらになさけなかったのです。くしゃんとなっていたのです。だからもう云いませんと申しました。彼は、私をひっぱるようにして、私の乗場のところ迄、ひきつれました。そして、改札口へ私がはいる時、又大きな声で云いました。
「今、俺とキスしよう。ようしないだろう」
そして、せせら笑いを残して帰ってゆきました。私は、その時ふと緑の島のことを思い浮べてしまいました。緑の島も、よくお酒をのむ人でした。よく二人でのみました。しかし、いつも笑って握手をしてさよならしたものでした、勿論、私がすねてお説教をくらったこともあります。私がいらいらして、怒ったこともあります。でも別れる時は、笑顔だったのです。私は、自分が緑の島を思い出したことに対して、ひどく又自分をいじめました。重い気持で電車にのったのです。
もう、鉄路のほとりとは、まったくつながりがたたれたように思えました。でも、私はやはり彼を愛しているのです。その日帰宅してからも、電話がかからないかと待っておりました。そして、机にむかい、彼に速達をしたためました。
あなたの愛情が感じられなくなったと。
もうおしまいのようだと。そして、お返ししたいものがあるし、さし上げたいものがあるから、三十日午後十時迄に、連絡して下さい。三十一日は、一日あいているようにきいてましたからと。何時でも何処でもいいと。五分間でいいのだと。
小母様、私はどうにもならなくなって、又生きる元気を失ってしまったのです。幸せになれると思ったのは束の間でした。二十二日から二十五日迄でした。私は、鉄路のほとりを愛しています。でも、それが真実
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