。蓬莱和子の真珠の光沢は、彼に、南原杉子とのこれから先の関係を肯定しているようであった。
 仁科たか子は、こんなにはやくいろいろの音の連続を出せるのかと、不思議に思った。
 ――ああ、阿難。ピアノをやめて、僕は狂いそうだ。阿難の感覚。阿難の作曲。阿難の音。だが、やっぱりつづけてくれ、いつまでも、僕は狂いそうだ――
 仁科六郎は目を閉じていた。
 高音部のトレモロ、マイナーのアルペジオ。
 ――阿難。阿難――
 阿難は、頬をつたって流れる涙を感じた。最期の三つのハーモニー。
「阿難」
 突然。それは、仁科六郎の声であった。本当の声であった。阿難は、ピアノにうつる彼の姿をみた。彼女は、キイに手をおいたまま、ペダルもきらずにうなだれた。
 仁科たか子も、蓬莱夫妻も、仁科六郎のさけびをきき、彼の表情を目撃した。誰も何一言云わない。つったっている仁科六郎を、唖然として見上げている。彼の、短いさけびを理解することがどうして出来よう。
 ふいに、金茶色の布がきらめいた。阿難は、まっすぐドアの方をみたまま、部屋を小走りによこぎった。涙がひかっていた。

「魔性なんだよ。彼女には魔性があるんだよ。たか子
前へ 次へ
全94ページ中92ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久坂 葉子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング