の妻を知らない。そして、電車に乗りおくれたことがよかったと思った。彼女は自信のある女性である。即ち、美貌に於いて。即ち才智に於いて。

 仁科六郎は歩行をゆるめた。
「どのおうち」
「いや、まだまだだ」
「じゃあ、いそぎましょう」
 蓬莱和子は機嫌がよかった。
「まだ遠いの」
「その角をまがればじきだ」
 仁科六郎の歩みはますますのろい。
「どうしたの、のみすぎたのじゃない」
 蓬莱和子は、先刻の気づまりな空気をさらりと忘れて、これから会う人の自分への信頼をたのしみにしている。それを感じた仁科六郎は苦々しく思った。彼は、ふと妻に同情したのである。
 薄暗い電燈の下で彼の妻、たか子は靴下のつくろいをしていた。突然の侵入者にいささかうろたえてお茶の用意をはじめた。
「御食事はまだでございましょう」
「あの、私結構ですのよ。ほしくないのですから、本当にこんな夜分御邪魔して」
「僕、食うよ」
 仁科六郎は、いつもたか子が食事をせずに、彼の帰りをまっていることを知っていた。夫婦が食事をしている間、蓬莱和子は傍で御喋りをはじめた。
「本当にいい御夫婦ね、うらやましいわ。いい奥様で、あなた御幸せね」
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