原杉子は下宿の二階で回想を終えた。深夜である。彼女は、完全に仁科六郎を蓬莱和子からきりはなしていた。マダムの存在がなくても、仁科六郎と、ああなった[#「ああなった」に傍点]と思ったのである。愛とは何であろうか。仁科六郎と、彼女自身は理解し合っていない。仁科六郎は、彼女の過去も、そして現在、どんな生活をしているのかも深くはしらない。彼女は、ある部分の彼女をそっとみせたにすぎないのだ。仁科六郎が、三割彼女のことを知ったとしても、実際は一割にもならないのだ。彼女も又、仁科六郎の大部分はわからないのだ。年齢は、三十五六だろうか。結婚して四年目、よくある男の部類か。否、彼女は否定してみた。そして否定したことが、自尊心の故でなく、彼に感じたものが、肉慾をはなれて成立する非常に純粋なものがあると思ったからなのだ。感じるだけでいいのだ。つまり、理解など恋愛には不必要なことである。
南原杉子は、短くなった煙草を、灰皿にすりつけて、しばらく笑っていた。
――仁科六郎にひきつけられてゆく自分、つまり阿難、新しく誕生した阿難を眺めることは、煩雑な乾燥した女史、教師の生活を忘れさせ、本来の自分にかえることだ。それは、自らの慰安であり、インタレストでもあるんだわ――
南原杉子は、寐間着にきかえて、ふとんを敷いた。
――阿難。恋をしなさい。燃えなさい――
四
谷山女史の関西の御弟子の発表会の数日前である。
仁科六郎と、蓬莱和子と、南原杉子は二回目の三人会見をした。三週間目位だろうか。二人ずつではよく会っていた。仁科六郎と、南原杉子、つまり阿難の部分との関係は、いよいよ深くなっていた。然し、お互の孤立した生活をまもっていた。外泊はしない。仕事関係の時は、仕事関係の仁科と南原にすぎない。他人の眼のあるところでは、南原杉子の内部から完全に阿難は追いはらわれていた。蓬莱和子と南原杉子も女同志の親密を深めてゆくように外見ではみえていた。だが、南原杉子は、自分をさらけ出さなかった。たとえば、人生のこと、恋愛のこと、音楽のこと、蓬莱和子は相変らずの調子で喋りまくる。私、ノンモラルですの、夫以外の人と恋愛します。私、ヒューマニストですの、私、真実一路ですの。南原杉子はハアハアといってきく。たまに、あなたはなどときかれても、わかりませんわと云う。仮面の真実をたてにして、虚飾の真実を売ろうとしていること、南原杉子は苦笑していた。蓬莱和子は、南原杉子を案外深みのない女だと内心軽蔑した。だが、やはり、あなたは素晴しい人だとほめそやす。あなたに対しては真実なのよと云う。仁科六郎のことが度々話題にのぼった。いい方ですわと、南原杉子は云う。一度、蓬莱和子の視線と、南原杉子の視線が、仁科六郎のことで、しばらくぶつかったことがある。お互の心の中をよみとろうとしたのだ。蓬莱和子の年齢は、嫉妬を相手の女性の前であらわすことを、ひどくみにくいことだと解釈するまでに達していた。南原杉子は、あなたと仁科氏が親しいのをみて嫉けますわ、と云った。蓬莱和子はしばらく優越にひたった。
仁科六郎と蓬莱和子と時たま会っていた。蓬莱和子は、南原杉子の出現によって、拍車をかけられたように仁科六郎に愛情をもった。蓬莱和子の真実の愛情である。仁科六郎は、蓬莱和子に、南原杉子を愛していると告げた。まあ嫉くわ、六ちゃん。でもあの人ほんといい人ね。それが蓬莱和子の答えであった。そして又、彼女は、仁科六郎に打ちあけられたことだけを南原杉子に告げたものだ。そこで南原杉子は百パーセント確信した。つまり、仁科六郎と蓬莱和子の関係である。有である。
さて、三人の会見は音楽会評よりはじまった。蓬莱和子の案内したバーである。
「お杉、(いつからか蓬莱和子は斯うよびはじめていた)あなたは感覚のある方だから、音楽を御存知なくても批評でなしに感想おっしゃれますでしょう。きかせて頂けません」
「あら私、さっぱりわかりませんの、でもあなたの御声、素晴しいわね、いい趣味」
蓬莱和子は、他の御弟子の批評を一くさりのべた。仁科六郎も口を出した。南原杉子は、にやにや笑いながらきいていた。
「六ちゃん。真中で何を黙ってるの、両手に花でいいじゃありませんか」
蓬莱和子と、南原杉子は、音楽から遠のいてありふれた流行の話をしていた。
「洋服のことなんか僕わからない」
「あら、ごめんなさい。のけものにして、ねえ、六ちゃん。お杉の黒のスーツどう思う? ちっとも似合わないわね。お杉は、明るい色彩の方が似合ってよ」
南原杉子は、黒がきこなしにくいものであることも、美人にしか似合わないことも承知している。しかし、二三日前、仁科六郎は、ひどく南原杉子のいでたちをほめたのである。
「僕はからきし色合のことわからないんだ」
「お杉が黒をきると
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