食事が終った。仁科六郎は苦々しい思いをかくして、たか子にやさしく言葉をかける。たか子はそれを喜んだ。
――夫が私を愛してくれること他の女の人にみせるのは気持がいいわ――
そして、蓬莱和子の巧みな話術に、最初抱いた恥辱のようなものもすっかり消されていた。たか子は絶対に夫を信じている。夫に愛情を持っている。そのことは蓬莱和子のまっ先に理解出来たことである。
「ごめんなさい。ねえ、わたし、ちょっと、あなたをうたがったの、あなたをよ、わるかったわ。ゆるして頂戴。あの方いい方ね」
蓬莱和子が二階の部屋に案内された後、寐床をとりながら貞淑な妻は夫にささやいた。三時頃である。それまで三人は愉快に世間話をしていた。蓬莱和子は、彼の妻の信頼を得たことを確認していた。そしてすぐに眠りについた。おそるべき無邪気さである。彼女は、南原杉子にしか嫉妬しない。仁科六郎の愛撫の対象がたか子なら、彼女は別段何とも思いはしない。かえって、階下の様子を空想してたのしく思ったのだ。よくある仲人マニアの色情的快楽に似ている。おかしな優越をふくんで。
仁科六郎は一睡も出来なかった。二階の女のことよりも、安心しきって眠っている妻のことよりも、彼の意識に阿難が笑っているからなのだ。蓬莱和子は南原杉子の名前を一度もたか子の前で口にしなかった。仁科六郎も勿論云わないでいた。彼は、話題に出なかったことにほっとしたのだが、かえって、わざとらしい蓬莱和子の態度を苦々しく思ったのだ。仁科六郎は、たか子の静かな眠りをさまたげたい気がした。そして、彼女の両眼に、唇を押しつけた。たか子は眠ったままであった。彼の中の阿難は、まだ微笑しつづけている。仁科六郎は、明日こそ、阿難の正体をつかんでしまうのだと、決意した。
夜明け近い。南原杉子は、眠られぬ一夜をすごした。
――阿難、お前よく考えなきゃ。仁科六郎は今の状態をつづけていることに満足なのかも知れないけど、あの人には妻があるのよ――
――何を云つても駄目だわ、阿難は、既にレールの上を走っているのよ。ブレーキは持っていない。――
――じゃあ、南原杉子の行先は何処? ――
――阿難が、南原杉子をひきずって走ってゆくのよ。でも、阿難の行先もわかってはいない。目を閉じて走っているんだわ――
――あの人と、結婚出来ないのよ。いつかは……――
――云わないで。――
前へ
次へ
全47ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
久坂 葉子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング