たが、女がもうそれを覚《さと》ったものか遽《にわ》かに腕釧の光を蔽《おお》った。すると木立の中は真暗になって、自分の掌《てのひら》さえ見えないようになったので引返した。
ある日金は河の北の方へいった。と、笠の紐《ひも》が断《き》れて風に吹かれて落ちそうになった。そこで金は馬の上で手を以ておさえていた。河へいって小舟に乗ったところで、強い風が来て笠を吹き飛ばして、波のまにまに流れていった。金はひどく残念に思ったが仕方がなかった。
そして河を渡ったところで、ふと見るとさっき流した笠が大風に漂わされて空に舞っていた。そして、それがだんだん落ちて来て風の前に来たので、手で以て承《う》けたが、不思議に断れていた紐がもとのようにつながっていた。
金は自分の室へ帰って女と顔をあわせた時、その日のことを精しく話した。女は何もいわずに微《ひそ》かに晒《わら》った。金は女のしたことではないかと思って聞いた。
「君は神だろう。はっきりいって僕のうたがいをはらしてくれ。」
女はいった。
「寂しい中で、私のような女ができて、くさくさすることがなくなっておりましょう。私は悪いものではないということを自分でいいます。たとえ私がそんなことをしたとしても、やっぱりあなたを愛しておるからです。それを根ほり葉ほりするのは、きれようとなさるのですか。」
金はそこでもう何もいわなかった。
その時金は甥女《めい》を養っていたが、すでに結婚してから、五通の惑わすところとなった。金はそれを心配していたが、それでもまだ他人にはいわなかった。ところで女と知りあって久しくなって心の中に思ったことは何事も口にするようになったので、ある時そのことを話していた。すると女はいった。
「こんなことなんか私の父ならすぐ除くことができるのですが、どうしてあなたのことを父にいえましょう。」
金は女の力を借るより他に手段がないと思ったので、
「なんとかして、お父さんに頼むことができないだろうか。僕をたすけると思って、やってくれないか。」
といって頼んだ。女はそれを聞いてじっと考えていたが、
「なに、あんなものは何んでもありませんわ。ただ私がゆくことができないものですから。あんなものは皆私の家の奴隷です。もし、あんなものの指が私の肌にさわろうものなら、この恥は西江の水でも洗うことができないですから。」
といった。金はそれでもやめずに女に頼んだ。
「どうか、なんとかしてくれないか。甥女が可哀そうでしかたがない。」
女は承知した。
「では、なんとか致しましょう。」
その翌晩になって女はいった。
「あなたのために、婢を南へやりました。婢は弱いから、殺すことができないという恐れはありますが。」
その翌晩、女が来て寝ていると、婢が来て戸を叩いた。女が起きて扉を開けて内へ入れて、
「どうだね。」
と訊いた。婢は、
「つかまえることができないものですから、片輪にしてやりました。」
といった。女は笑ってその状を訊いた。婢はいった。
「はじめは旦那様のお家だと思っていましたが、いってみてそうでない事が解りました。で、婿さんの家へいってみますと、もう燈《あかり》が点《つ》いておりました。入ってみますと奥様が燈の下に坐って、几《つくえ》によりかかっておやすみになろうとするふうでした。私はそこで奥様の魂をとって、※[#「倍のつくり+瓦」、第3水準1−88−38]《かめ》の中へ入れてしまって、待っておりますと、しばらくして彼奴《あいつ》が来て室《へや》の中へ入りましたが、急に後にどいて、どうして知らない人を置いてあるのだといいました。それでもよく見ると何もいないものですから、また入って来ました。私はうわべに迷わされたようなふりをしておりますと、彼奴は衾《ふとん》をあけて入りかけましたが、また驚いて、どうして刃物があるのだといいました。私はもともと穢い物で指を汚すのはいやでしたが、ぐずぐずしていて間違いができると困りますから、とうとう捉えて片輪にしてしまいますと、彼奴は驚いて吼《ほ》えながら逃げてしまいました。そこで起きて※[#「倍のつくり+瓦」、第3水準1−88−38]を開けると奥様もお醒めになったようですから、私も帰ってまいりました。」
金は喜んで女に礼をいった。そこで女と婢とは一緒に帰っていった。
その後半月あまりしても女は来なかった。金はもう女は来ないものだと諦《あきら》めてしまった。その時は歳の暮であった。金は塾を閉じて帰ろうとした。と、女が不思議にやって来た。金は喜んで女を迎えていった。
「君に見すてられたので、きっと何か怒られたと思っていたのだが、しあわせとすてられっきりでもなかったね。」
女はいった。
「一年もああしていたのに、別れに一言もなくては物足りないじゃありませんか。あなたがここをおひきあげになると聞いたので、それで、そっと来たのですよ。」
金は女を伴れて帰っていきたかった。
「一緒に僕の家へいこうじゃないか。」
女はためいきをついていった。
「申しにくいことですけれど、お別れしなくちゃなりませんから、あなたにかくすこともできません。私は金竜大王の女《むすめ》なのですが、あなたと御縁があったものですから、それでこんなになったのです。口どめしておかなかったものですから、あの婢を江南にやったことが世間に知れて、私があなたのために五通を片輪にしたといいだしましたから、それをお父様が聞いて、たいへんな恥だといって、ひどく忿って私を死なせようとしましたが、いいあんばいに婢が自分のことにしてくれましたので、お父様の立腹もすこしおさまって、婢を何百とたたいてすみました。私はそれから一足出るにも、皆|保姆《ばあや》をつけられるのです。その隙を見てやっとまいりましたから、申しあげたいこともありますが、精しいことはいっていられないのです。」
女はそういってから別れていこうとした。金はその女の袖をとらえて涙を流した。女はいった。
「あなた、そんなになさらなくっても、三十年したなら、また一緒になります。」
金はいった。
「僕は今三十だが、これからまた三十年すると白髪の老人じゃないか。どんな顔をして君と逢うのだ。」
女はいった。
「そんなことはありませんよ。竜宮には白髪の老人はないのですから。それに人の長生と若死は、貌や容子によりません。もし若い顔をそのままにしておきたいというなら、それはなんでもないことです。」
そこで女は書物のはじめの方に一つの方法を書いていってしまった。
金は故郷へ帰った。金の甥女《めい》はそこで不思議なことのあったことを話した。
「その晩、夢のように、ある人が私をつかまえて※[#「央/皿」、第3水準1−88−73]《かめ》の中へ入れたと思いましたが、醒《さ》めてみると血が衾に赤黒くついていたのです。それっきり怪しいことはなくなったのです。」
金はそこで、
「それは、俺が黄河《こうが》の神に祷《いの》ったからだ。」
といったので、皆の疑いも解けてしまった。
彼、金は六十あまりになったが、容貌はなお二十ばかりの人のようであった。その金がある日、河を渡っていると、遥かの上流から蓮の葉が流れて来たが、その大きさは蓆《むしろ》のようであった。それには一人の麗人《れいじん》が坐っていたが、近づいてから見るとそれは彼の仙女であった。金はそれを見るといきなり身を躍らして蓮の葉に乗り移った。と、蓮の葉は流れくだって、人は次第に小さくなり、やがて銭のようになって見えなくなってしまった。
この事は邵弧《しょうこ》の話と同じく倶《とも》に明末《みんまつ》の事であるが、いずれが前、いずれが後ということは解らない。もし万《ばん》生が武を用いた後であったならば、すなわち呉の地方には僅かに半通だけが遺っているわけであるから、害をなすにたらないのである。
底本:「聊斎志異」明徳出版社
1997(平成9)年4月30日初版発行
底本の親本:「支那文学大観 第十二巻(聊斎志異)」支那文学大観刊行会
1926(大正15)年3月発行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2007年8月12日作成
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