寝台《ねだい》にねているような気がしなかった。わたしは目が覚《さ》めるとさっそく寝台にさわったり、そこらを見回したり、いろいろ試《ため》してみた。ああ、そうだ、わたしはやはりバルブレンのおっかあのうちにいた。
 バルブレンはその朝じゅう、なにもわたしに言わなかった。わたしはかれがもう孤児院《こじいん》へやる考えを捨《す》てたのだと思うようになった。きっとバルブレンのおっかあが、あくまでわたしをうちに置《お》くことに決めたのであろう。
 けれどもお昼ごろになると、バルブレンがわたしに、ぼうしをかぶってついて来いと言った。
 わたしは目つきで母さんに救《すく》いを求《もと》めてみた。かの女もご亭主《ていしゅ》に気がつかないようにして、いっしょに行けと目くばせした。わたしは従《したが》った。かの女は行きがけにわたしの肩《かた》をたたいて、なにも心配することはないからと知らせた。
 なにも言わずにわたしはかれについて行った。
 うちから村まではちょっと一時間の道であった。そのとちゅう、バルブレンはひと言もわたしに口をきかなかった。かれはびっこ引き引き歩いて行った。おりふしふり返って、わたしがついて来るかどうか見ようとした。
 どこへいったいわたしを連《つ》れて行くつもりであろう。
 わたしは心の中でたびたびこの疑問《ぎもん》をくり返してみた。バルブレンのおっかあがいくらだいじょうぶだと目くばせして見せてくれても、わたしにはなにか一大事が起こりそうな気がしてならないので、どうしてにげ出そうかと考えた。
 わたしはわざとのろのろ歩いて、バルブレンにつかまらないようにはなれていて、いざとなればほりの中にでもとびこもうと思った。
 はじめはかれも、あとからわたしがとことこついて来るのて、安心していたらしかった。けれどもまもなく、かれはわたしの心の中を見破《みやぶ》ったらしく、いきなりわたしのうで首をとらえた。
 わたしはいやでもいっしょにくっついて歩かなければならなかった。
 そんなふうにして、わたしたちは村にはいった。すれちがう人がみんなふり返って目を丸《まる》くした。それはまるで、山犬がつなで引かれて行くていさいであった。
 わたしたちが村の居酒屋《いざかや》の前を通ると、入口に立っていた男がバルブレンに声をかけて、中にはいれと言った。バルブレンはわたしの耳を引《ひ》っ張《ぱ》って、先にわたしを中へつっこんでおいて、自分もあとからはいって、ドアをぴしゃりと立てた。
 わたしはほっとした。
 そこは危険《きけん》な場所とは思われなかった。それに先《せん》からわたしは、この中がいったいどんな様子になっているのだろうと思っていた。
 旅館《りょかん》御料理《おんりょうり》カフェー・ノートルダーム。中はどんなにきれいだろう。よく赤い顔をした人がよろよろ中から出て来るのをわたしは見た。表のガラス戸は歌を歌う声や話し声で、いつもがたがたふるえていた。この赤いカーテンの後ろにはどんなものがあるのだろうと、いつもふしぎに思っていた。それをいま見ようというのである……
 バルブレンはいま声をかけた亭主《ていしゅ》と、食卓《しょくたく》に向かい合ってこしをかけた。わたしは炉《ろ》ばたにこしをかけてそこらを見回した。
 わたしのいたすぐ向こうのすみには、白いひげを長く生やした背《せい》の高い老人《ろうじん》がいた。かれはきみょうな着物を着ていた。わたしはまだこんな様子の人を見たことがなかった。
 長い髪《かみ》の毛《け》をふっさりと肩《かた》まで垂《た》らして、緑と赤の羽根《はね》でかざったねずみ色の高いフェルト帽《ぼう》をかぶっていた。ひつじの毛皮の毛のほうを中に返して、すっかりからだに着こんでいた。その毛皮服にはそではなかったが、肩《かた》の所に二つ大きな穴《あな》をあけて、そこから、もとは録色だったはずのビロードのそでをぬっと出していた。ひつじの毛のゲートルをひざまでつけて、それをおさえるために、赤いリボンをぐるぐる足に巻きつけていた。
 かれは長ながといすの上に横になって、下あごを左の手に支《ささ》えて、そのひじを曲げたひざの上にのせていた。
 わたしは生きた人で、こんな静《しず》かな落ち着いた様子の人を見たことがなかった。まるで村のお寺の聖徒《せいと》の像《ぞう》のようであった。
 老人《ろうじん》の回りには三びきの犬が、固《かた》まってねていた。白いちぢれ毛のむく犬と、黒い毛深いむく犬、それにおとなしそうなくりくりした様子の灰《はい》色の雌犬《めすいぬ》が一ぴき。白いむく犬は巡査《じゅんさ》のかぶる古いかぶと帽《ぼう》をかぶって、皮のひもをあごの下に結《ゆわ》えつけていた。
 わたしがふしぎそうな顔をしてこの老人《ろうじん》を見つめているあいだに、バルブレンと居酒屋《いざかや》の亭主《ていしゅ》は低《ひく》い声でこそこそ話をしていた。わたしのことを話しているのだということがわかった。
 バルブレンはわたしをこれから村長のうちへ連《つ》れて行って、村長から孤児院《こじいん》に向かって、わたしをうちへ置《お》く代わりに養育料《よういくりょう》が請求《せいきゅう》してもらうつもりだと言った。
 これだけを、やっとあの気のどくなバルブレンのおっかあが夫《おっと》に説《と》いて承諾《しょうだく》させたのであった。けれどわたしは、そうしてバルブレンがいくらかでも金がもらえれば、もうなにも心配することはないと思っていた。
 その老人《ろうじん》はいつかすっかりわきで聞いていたとみえて、いきなりわたしのほうに指さしして、耳立つほどの外国なまりでバルブレンに話しかけた。
「その子どもがおまえさんのやっかい者なのかね」
「そうだよ」
「それでおまえさんは孤児院《こじいん》が養育料《よういくりょう》をしはらうと思っているのかね」
「そうとも。この子は両親がなくって、そのためにおれはずいぶん金を使わされた。お上《かみ》からいくらでもはらってもらうのは当たり前だ」
「それはそうでないとは言わない。だが、物は正しいからといってきっとそれが通るものとはかぎらない」
「それはそうさ」
「それそのとおり。だからおまえさんが望《のぞ》んでおいでのものも、すらすらと手にはいろうとはわたしには思えないのだ」
「じゃあ孤児院《こじいん》へやってしまうだけだ。こちらで養《やしな》いたくないものを、なんでも養えという法律《ほうりつ》はないのだ」
「でもおまえさんははじめにあの子を養いますといって引き受けたのだから、そのやくそくは守らなければならない」
「ふん、おれはこの子を養《やしな》いたくないのだ。だからどのみちどこへでもやっかいばらいをするつもりでいる」
「さあ、そこで話だが、やっかいばらいをするにも、手近なしかたがあると思う」老人《ろうじん》はしばらく考えて、「おまけに少しは金にもなるしかたがある」と言った。
「そのしかたを教えてくれれば、おれは一ぱい買うよ」
「じゃあさっそく一ぱい買うさ。もう相談《そうだん》は決まったから」
「だいじょうぶかえ」
「だいじょうぶよ」
 老人《ろうじん》は立ち上がって、バルブレンの向こうに席《せき》をしめた。ふしぎなことには、老人が立ち上がると、ひつじの毛皮服がむずむず動いて、むっくり高くなった。たぶん、もう一ぴき犬をうでの下にかかえているのだとわたしは思った。
 この人たちは、いったいわたしをどうしようというのだろう。わたしの心臓《しんぞう》がまたはげしく打ち始めた。わたしはちっとも老人《ろうじん》から目をはなすことができなかった。
「おまえさんはこの子のためにだれか金を出さない以上《いじょう》、自分のうちに置《お》いて養《やしな》っていることはいやだという、それにちがいないのだろう」
「それはそのとおりだ……そのわけは……」
「いや、わけはどうでもよろしい。それはわたしにかかわったことではない。それでもうこの子が要《い》らないというのなら、すぐわたしにください。わたしが引き受けようじゃないか」
「おや、おまえさんはこの子を引き受けると言うのかね」
「だっておまえさんはこの子をほうり出したいんだろう」
「おまえさんにこんなきれいな子をやるのかえ。この子は村でもいちばんかわいい子だ。よく見てくれ」
「よく見ているよ」
「ルミ、ここへ来い」
 わたしは食卓《しょくたく》に進み寄《よ》った。ひざはふるえていた。
「これこれぼうや、こわがることはないよ」と老人《ろうじん》は言った。
「さあ、よく見てくれ」とバルブレンは言った。
「わたしはこの子をいやな子だとは言いやしない。またそれならば欲《ほ》しいとも言わない。こっちは化け物は欲しくはないのだ」
「いやはや、こいつがいっそ二つ頭の化け物か、または一寸法師《いっすんぼうし》ででもあったなら……」
「だいじにして孤児院《こじいん》にやりはしないだろう。香具師《やし》に売っても見世物に出しても、その化け物のおかげでお金もうけができようさ。だが子どもは一寸法師でもなければ、化け物でもない。だから見世物にすることはできない。この子はほかの子どもと同じようにできている。なんの役にも立たない」
「仕事はできるよ」
「いや、あまりじょうぶではないからなあ」
「じょうぶでないと、とんでもない話だ。……だれにだって負けはしないのだ。あの足を見なさい。あのとおりしっかりしている。あれよりすらりとした足を見たことがあるかい……」
 バルブレンはわたしのズボンをまくり上げた。
「やせすぎている」と老人《ろうじん》は言った。
「それからうでを見ろ」とバルブレンは続《つづ》けた。
「うでも同様だ。――まあこれでもいいが、苦しいことや、つらいことにはたえられそうもない」
「なに、たえられない。ふん、手でさわって調べてみるがいい」
 老人《ろうじん》はやせこけた手で、わたしの足にさわってみながら、頭をふったり、顔をしかめたりした。
 このまえ、ばくろうが来たときも、こんなふうであったことを、わたしは見て知っていた。その男もやはり牛のからだを手でさわったりつねったりしてみて、頭をふった。この牛はろくでもない牛だ、とても売り物にはならない、などと言ったが、でも牛を買って連《つ》れて行った。
 この老人《ろうじん》もたぶんわたしを買って連れて行くだろう。ああバルブレンのおっかあ。バルブレンのおっかあ。
 不幸にもここにはおっかあはいなかった。だれもわたしの味方になってくれる者がなかった。
 わたしが思い切った子なら、なあにきのうはバルブレンも、わたしを弱い子で、手足がか細くて役に立たぬと非難《ひなん》したのではないかと言ってやるところであった。でもそんなことを言ったら、どなりつけられて、げんこをいただくに決まっているから、わたしはなにも言わなかった。
「まあつまり当たり前の子どもさね。それはそうだが、やはり町の子だよ。百姓《ひゃくしょう》仕事にはたしかに向いてはいないようだ。試《ため》しに畑をやらしてごらん、どれほど続《つづ》くかさ」
「十年は続くよ」
「なあにひと月も続《つづ》くものか」
「まあ、このとおりだ。よく見てくれ」
 わたしは食卓《しょくたく》のはしの、ちょうどバルブレンと老人《ろうじん》の間にすわっていたものだから、あっちへつかれ、こっちへおされて、いいようにこづき回された。
「さあ、まずこれだけの子どもとして」と老人《ろうじん》は最後《さいご》に言った。「つまりわたしが引き受けることにしよう。もちろん買い切るのではない、ただ借《か》りるのだ。その借《か》り賃《ちん》に年に二十フラン出すことにしよう」
「たった二十フラン」
「どうして高すぎると思うよ。それも前ばらいにするからね。ほんとうの金貨《きんか》を四|枚《まい》にぎったうえに、やっかいばらいができるのだからね」と老人《ろうじん》は言った。
「だがこの子をうちに置《お》けば、孤児院《こじいん》から毎月十フランずつくれるからな」
「まあくれてもせいぜい七フランか十
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