屋敷の人達や、アアミンガアドやロッティの来る日も、賑《にぎや》かで愉快でしたが、セエラと印度紳士と二人きりで、本を読んだり話し合ったりする時間は、何か二人きりのものだというようで、特別うれしいのでした。二人で過す時間の間には、いろいろ面白いことが起りました。
 ある晩、カリスフォド氏は、書物から眼を上げて、セエラが身じろぎもせず、じっと火を見つめているのに、気がつきました。
「セエラ、何のつもり[#「つもり」に傍点]になっているの?」
 セエラは頬をぽっと輝かせました。
「こういうつもり[#「つもり」に傍点]だったの。――こういうことを思い出していたのよ。ある日大変ひもじかった時、私の見た子のことを。」
「でも、たいていの日はひもじかったんじゃアないのかい?」印度の紳士は悲しげな声でいいました。「どの日だったの?」
「あなたは、御存じなかったのね。あの夢が、まことになった日のことよ。」
 セエラはそういってから、パン屋の話をして聞かせました。溝の中から銀貨を一つ拾ったこと、拾ってから自分よりひもじそうな子に会ったことなど、セエラは何の飾りけもなく、出来るだけあっさりと話したつもりでしたが、印度紳士はたまらなくなったらしく、眼に手をかざして、床を見つめました。
 セエラは語り終ると、こういいました。
「で、私、こういうことを考えていたのよ。何かしてあげたいってつもり[#「つもり」に傍点]になっていたのよ。」
「どういうことをしてあげたいのだね? 女王殿下《プリンセス》。何でも、お好きなことを遊ばしませ。」
 セエラは、ややためらいながらいいました。
「私、あの――私には大変なお金があると仰しゃったわね。だから、私あの、あのパン屋のおかみさんの所へ行って、こういおうかしらと思っていましたの。ひもじそうな子が――殊にひどいお天気の日などに、店の前に来て坐ったり、窓から覗いていたりしていたら、呼び入れて、食べさしてやってくれって。そして、その書付《かきつけ》は、私の方に廻してくれって。――そんなことをしてもいいでしょうか?」
「いいとも。早速、明日の朝行って来たらいいだろう。」
「うれしいわ。ね、私、ひもじい苦しみは身に沁みて味っているでしょう。ひもじい時には、何かつもり[#「つもり」に傍点]になったって、ひもじさを忘れることは出来ないのよ。」
「そうとも。うむ、そうだろうな。でも、もうそのことは忘れる方がいいよ。私の膝のそばに来て坐っておくれ。そして、嬢やはプリンセスだということだけ考えている方がいい。」
「そうね。」と、セエラはほほえみました。「私、人の子達に、パンや、甘パンを恵んでやることが出来るのですものね。」
 次の朝、ミンチン女史が窓の外を見ていますと、女史にとっては、実に見るにたえないようなことが眼に映りました。印度紳士の家《うち》の前に馬車が着いて、毛皮にくるまれた紳士と少女が、玄関を降りて来るのでした。その見なれた少女の姿を目にすると、ミンチン女史は過ぎ去った日のことを思い起しました。すると、そこへもう一人、見なれた少女の姿が現れました。その姿を見ると女史はひどくいらだって来ました。いうまでもなくそれはベッキイでした。ベッキイはすっかり小間使《こまづかい》になりすまして、いそいそ若い御主人に従い、膝掛や手提を持って、馬車の処《ところ》まで見送りに出て来たのでした。いつの間にかベッキイは血色もよく、むっちりと肥っていました。
 馬車はまもなく、パン屋の店先につけられました。馬車から二人が出て来た時には、不思議にもまた、ちょうどいつかの時のように、おかみさんが出来たてのパンを窓にさし入れていました。
 セエラが店に入って行きますと、おかみさんは振り返ってセエラの方を見ました。セエラを見ると、甘パンはうっちゃらかして、帳場の中に坐りました。おかみさんはしばらくの間、穴のあくほどセエラ[#「セエラ」は底本では「エセラ」]の顔を見つめていましたが、人のいい顔はじき、はればれとして来ました。
「確かに、お嬢様にはお目にかかったことがございますわ。でも――」
「ええ、お目にかかりましたわ。あの時あなたは、私に甘パンを六つも下さいましたわね。それから――」
「それから、あなたは六つのうち五つまで、あの乞食娘にやっておしまいになりましたのね。私はそのことが忘れられませんでしたの。初めは、何だかわけがわかりませんでしたけど。」
 おかみさんは、今度は印度紳士の方に向き直って、こう話しかけました。
「失礼でございますが、旦那様。こんなお小さいのに、他人がひもじいかどうかなんて気のつくお子は、お珍しゅうございますわ。私、そのことを、幾度も幾度も考えてみたのでございますよ。これは、とんだことを申してしまいました。お嬢様、でも、あなた様はまア、お顔色がよくおなりですこと――それに、あの、以前よりはずっとお丈夫そうに、そして、お立派に――」
「おかげさまで丈夫よ。それに――以前よりはずっと幸福《しあわせ》になったのよ。――で、私、あなたにお願いがあって来たの。」
「私に、お願いですって?」と、おかみさんはうれしそうに笑いました。「まアお嬢様、それはそれは、どんな御用でございますの?」
 そこで、セエラは帳場によりかかって、お天気の悪い日、ひもじそうな宿無《やどなし》の子を見たら、パンを恵んでやってくれと、頼みました。
 おかみさんは話の間、セエラをじっと見つめて、びっくりしたような顔をしていました。が、聞き終るとまた、
「まア、それはそれは。」といいました。「私に施しをさせて下さるなんて、うれしゅうございますわ。御覧の通り、私はほんのもうその日暮しで、自分の力ではとても大したことは出来ないんでございますの。気の毒な人はそこら中におりますのにね。でも、失礼か存じませんが、ちょっとお耳に入れておきたいことがございますの。あの日以来、雨の日には、あなた様のことを思い起して、少しずつパンを恵んでやることにしているのでございますよ。――あの日は、ほんとに寒くて、ひもじそうでいらっしゃいましたわね。それなのに、あなた様は、まるでプリンセスかなにかのように、惜しげもなく甘パンを施しておしまいになりましたのね。」
 プリンセスと聞くと、印度の紳士は思わず微笑しました。セエラも、あの子のぼろぼろな膝にパンを置きながら、心の中でつぶやいたことを思い起して、ちょっと微笑しました。
「あの娘は、ひもじそうだったわ。」と、セエラはいいました。「私よりもひもじそうだったわね。」
「もう死にそうにお腹がすいていたのでございますよ。あの子は、あれからよく私に、あの時のことを話してくれましたが――ぐしょぐしょになって坐っていると、可哀そうに、自分のお腹の中で、狼がはらわたを食い裂いているような気がしましたって。」
「あら、それじゃアあなた、あれから、あの子に会ったの? 今どこにいるか、御存じ?」
「存じておりますとも。」おかみさんは、いつよりもよけい人のよさそうな顔をして笑いました。「そらあそこに、ね、お嬢様、あの奥の部屋に、もう一月もいるんでございますよ。それに、あの子は、なかなかきちんとした、いい性質の子になりそうでございますよ。思いの他役に立ちましてね、店でも、台所でも、乞食をしていたとは思えないほど、手助けをしてくれますの。」
 おかみさんは、奥の戸口に歩みよって、声をかけました。すると、すぐ一人の娘が、おかみさんの後《うしろ》から、帳場に出て来ました、小綺麗な服をきちんと来て、もうひもじさなどは忘れたような顔をしていましたが、あの乞食娘にはちがいありませんでした。少女は羞しそうにしていましたが、可愛い顔立をしていました。今はもう人間らしい生活をしているためか、あの野蛮な眼付はすっかりなくなっていました。少女はふと見るとすぐ、セエラがいつかパンをくれた人だと知ったらしく、じっと立ったまま、いつまでも見あきぬようにセエラの顔を見つめておりました。
「ね、こうなのでございますよ。」と、おかみさんは説明しました。「ひもじい時にはいつでもおいで、と私が申したものでございますから、この子はよく店に来るようになりました。来ると、私は何か用をしてもらうようにしたのでございますよ。ところが、この子は何でもいやがらずにしてくれますので、私は何だか、だんだんこの子が好きになってまいりましたの。で、とうとううちに来てもらいましてね。この子は私の手伝いをしてくれるようになりました。お行儀もよいし、恩義も知っていますし、普通の娘とちっとも変りはありません。名前はアンヌと申します。アンヌとばかりで、苗字も何もないのでございますよ。」
 セエラとアンヌとは、ちょっとの間、ただ黙って、じっとお互の顔を見合っていました。やがて、セエラはマッフの中から手を出して、帳場の向うのアンヌの方にさし出しました。アンヌはその手を握りました。二人はまたお互に眼を見合せました。
「私、うれしくてよ。」と、セエラはいいました。「私、今しがた、いいことを考えていたの。きっとおかみさんは、あなたにパンを施させて下さるでしょう。あなたもきっと、その役をよろこんでして下さると思うわ。あなただって、ひもじい味はよく知ってらっしゃるのですものね。」
「はい、お嬢さん。」と、少女は答えました。
 アンヌは、それぎり何もいわず、つっ立っていたばかりでしたが、セエラには、アンヌの気持がよく解るような気がしました。アンヌは、いつまでもそこに立って、セエラが印度紳士と一緒に店を出、馬車に乗って去って行くのを、じっと見送っていました。



底本:「小學生全集第五十二卷 小公女」興文社、文藝春秋社
   1927(昭和2)年12月10日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
 その際、次の書き換えを行いました。
「或→ある・あるい 居→い・お 却って→かえって 彼処→かしこ 難→がた 曽て→かつて 此処・此室・此家・茲→ここ 此方→こっち 毎→ごと 悉く→ことごとく 此の→この 直き→じき 切りに→しきりに 従って→したがって 暫く→しばらく 知れない・ません→しれない・ません 直ぐ→すぐ 凡→すべて 其処→そこ 傍→そば 沢山→たくさん 忽ち→たちまち 給→たま 度→たび 為→ため 何誰→だれ 丁度→ちょうど 就いて→ついて 唯→と 何処→どこ 何誰・何方→どなた 何の→どの 共に→ともに 何故→なぜ 筈→はず 頁→ページ 殆んど→ほとんど 先ず→まず 全く→まったく 迄→まで 間もなく→まもなく 若し→もし 勿論→もちろん 尤も→もっとも 許→もと 貰→もら 易→やす 他所→よそ 宜し→よろし」
※底本は総ルビでしたが、一部を省きました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※「ひ」「あかり」と読んで単独で用いる際は「灯」、熟語をつくる際は「燈」とする底本の使い分けをなぞりました。
※ジュフアジ/ジュフラアジ、ベッキィ/ベッキー/ベッキイ、パリィ/パリイ、蹈/踏の混在は底本の通りです。
入力:大久保ゆう
校正:門田裕志、浅原庸子
2005年5月19日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全25ページ中25ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
バーネット フランシス・ホジソン・エリザ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング