ていた。そして主唱者の墜りやすい通弊として、彼もその影響の効果を過大視していたようである。我が院長に至ってはまるで誇大が狂的に迄進んで、私を嫌いな色でせめさいなんだ。彼は私の悪心を紫色で包み隠そうとしたのである。けれど彼は本統にそんな馬鹿気た望みを三分でも持ち続け得たであろうか? 私には何うしても院長の心持を洞察する事が不可能であった。
私は不眠癖に苦しめられ乍ら、毎夜を紫色の室で大人しくしていた。同じ色の絹で蔽われた燈光が、同じ光に見える音のない小噴水の水しぶきを柔らかく照した。何一つ落ちていない床の上の広い淋しさが真夜中になると一層広がった。私は何うかして眠ろうと願って、あの観無量寿経の中にある一つの静視法、即ち落ちる日輪から水晶の幻影を生み出す事を考え耽るのであった。だが、話したいのは更に別の事である。
その時であった。実に、物静かな空気が鼓膜に感じない前に、皮膚へ感じる程度の振動を起したので、私は忽ち我に帰って耳を立てた。
足音である。人の来るけはいである。室外の廊下に思い余って、誰かが立ちすくむ様子らしい。だが、事件はもっと別の事である。
誰であろう。女であろうか? 女ならば誰であろうか? 之が私の無言の質問であった。
「あれかも知れない……」と私が推定した当の人物は矢張り女性であった。彼の女は何時も私の眼に何物かを読もうとして焦躁しているのが分っていた。私が一寸戯れにやさしい顔をすると、向うは却って真面目に怯えたりした事もあるその女と云うのは独身の看護婦長であり、女の癖に極く慎ましい方であった。従って幾らか物識りのように見えた。彼の女は何うかして私の口に「恋愛」と云う言葉を上させようとして骨を折り、色々の導火線へ火をつけて見ていたのである。彼の女は胸の中で「私達はもう恋を仄かに感じ合っているのだ。唯お互いに内気だから打ち明けずにいるのだわ。」と云う一人定めの思想を抱いているのが確かであった。女は早く私から「甘い苦しみ」と云う奴を打ち明けて貰おうとして、もう夢中になっていた。始終自分の服装を替えたり、歩きつきを誇張したり、つまらぬ事に驚きの声を発して見たり、フンフンと鼻を鳴らしたり、一人で海岸へ行くと云ったり、森へ行くと云って出掛けなかったり、態々犬を私のそばへ連れて来たり、鸚鵡にものを云わせて見たり、風呂に入って香水をつけて来たり、腕をまくってム
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