、大通りを歩くと皆が二階の窓から睨めて、唾で丸めた紙を投げるのです。」私は斯んなふうに子供らしい嘆きを洩した。けれども私を愛さぬ父は彼自身の少年時代が矢張り之と同じだったと答えた。そんな嘆きは段々と凝集して大きい塊りになって行き、ああ遂に全然別のものと変態して了ったのであった。
 誰に向けられるのでもない漠然とした怨恨の情と、縁の下の蔓のようにいじけた僻みの根性とが、私の心を両方から閉ざす二つの扉となったのは極めて自然である。斯んな説明は誰も陳腐であるとして排斥する程、私の心の変化は普通の成り行である。
 だが、私が十九才程に成長した時、一つの出来事が起って、其れが他の出来事をさそった。私の父は重い病気の後に死んだ。母は既に約束してあった男と早速何処かへ逃げて行って了った。遠く出稼ぎに出て居た私が駈け附けた時には、薄馬鹿の妹が小さく暗い家に足を投げ出して、何か考え事をしているのを見た丈であった。考え事と云っても別段分別の籠ったものではない。唯ウツラウツラとして時間のたつのを待っていた迄なのである。私も妹と一緒にウツラウツラとなって行った。何故か此の時私は自分が一年間でも、わざと犬殺しを家業にして来た事を深く後悔する事が出来た。私は泣いて妹に抱きついたが、妹は黙って足を投げ出していた。
「お前は奉公に行けるかい? 私も之から何かの職人になるから……」と私は兄らしい情をこめて囁いた。
「犬ころしは止すの?」と無邪気な妹が尋ねた。彼の女は丁度その時十七才であったが智恵は遅れていて、読書も算術も出来ない低能児であった。それにも拘らず、彼の女の体はもはや大人並の生理状態を持っていたのである。スペイン闘牛士のように美しい私は答えた。
「犬ころし! ウンそれはもう止そう。お父さんもいやがっていたからね。けれどだね。私は時々思うのだ。世間は態とムシャクシャ腹を立てさせて、一人の人間をもうすっかり自暴自棄にさせ、終いには残忍にさせる。そして、その残忍を何かしら世間の為めに有効に使おうとする。世間は残忍をも遊ばして置かない。斯うして依怙地な犬殺しが出来る。気狂い犬が減って、噛まれる人々が少くなる。うまいやり方ではないか。」
 妹はノロく笑った。二人は父の死亡と母の遁走を一通り悲しむと、もう直ぐそれを忘れる事が出来た。いや結局此の方が好いようにさえ思われたのは何う云う訳だったであろう。

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