真面目に生きていると信じ乍ら、然もやっている事が皆遊戯なのを知らぬ人間である。例えば、彼は蟻を夢中で見詰める。その夢中な有様は少し狂気を交えている。何も知らない蟻の方では、力一杯に腐った蛙の子を運んでいる。
「おお、何て一生懸命、可愛がってやらねば……」彼は涙ぐんで、蛙の腐肉を蟻の穴へと手伝って運んでやる。けれど、若し、街頭で子を背負い乍ら車の後押しをしている人間の女を見るならば、彼は眉をひそめて、態と眼を閉じて了う。「耐らない、汚い。」のである。彼は病気で歩けない雨蛙は好きであるが、本当の病人――私――なぞをあまり好かない。「此の蛙、風邪引いている。お湯飲まして、寝かしてやる。」之が彼の持ち前である。
 或る男が、生きた竹を切っているのを見掛けた時、彼は額の上の方迄、眉毛を持って行って了った。実際、彼の眉毛は好く動く。そして、普段でも、眼から二寸位は離れているが、驚いたり、怒ったりする時は三寸五分位に隔たる。もっと驚いたら、後頭部の方へと廻って行って了い相な気さえする。西洋人は怒る時眼を瞠って、隠れていた白眼迄をも現すのであるが、支那人は主に、顔面へ既に現れているものを、頭巾を冠った頭部の方へ隠すのである。改めて云うが、彼は正直に怒って了ったのである。「それ、いけない。」
 それにも拘らず、竹屋の前を通る時、死んで竿になって了っている竹が、亡霊の様に立っているのを見掛けたとて、彼は何とも思いはしないのである。「貴方、西瓜の果、食べる?」と掌へ乗せた黒い粒を私にすすめる丈である。
 私は考えた。何故彼は人間の私よりも病気の蛙を愛し、人間の奴隷よりも働く蟻に熱中するのか。又切り掛けの竹を憐れがるのに、切られて了った竹を恐れぬのか。
 最初の方の疑問は直きと解決される機会に到着した。彼が二寸方形位の写真のファインダーを、自分で造って持っている事から、私は気附いたのであるが、彼は自然大の自然物よりも、此のファインダーの擦り硝子へ映る小さい影像の方に、何れ程愛着しているか分らない。
「ああ、煙突からパーと煙出る。煙草よりももっと、小さい。それ可愛い。」
 此処に於いて私は判定する。小さくなくては彼の愛を買う事が出来ない。蛙は人間を縮小したものとして彼の眼に映ずるらしい。
 之は勿論全体を蔽う解決ではない。然し、重要な部分の様ではあるまいか。
 次が、竹の生死問題である。彼は
前へ 次へ
全73ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
松永 延造 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング