何を絶望するのか。我々の仕事は無駄ではない。唯眼に見えて効果が顕れない丈で、少しずつ潜在的な力が出来て来ているのである。諸君は雨だれを観察した事があるか。私は知っている。あの雨だれを見て貰いたい。それは立派な透明な球の粒である。全くそれに相違ない。そして地へ向って走る前に、生命あるものの如く顫え出す。其れが走る力の養成される有様である。それは走る運動そのものではないが、然もそれに持続した力である。進行の前の足踏みである。顕著な運動ではないが、非常に重要な力の養成である。
諸君は如何に思うか。我々の運動が顕著でない時が、即ち我々の力を養成する好機である。効果が目に見えないでも、之は重要な一つの過程である。当にせねばならぬ行為である。
強盗が六人の人を殺し、悪い親が幼児を鉄槌でなぐり殺しても、悪い女が継子を天井から縛って吊し、その下で、もう一人の貰い子へ焼火箸を当てて、肉の煙りを立たせても、サディズムの男が女の指を切って食べ、学生が親友をバットで打ちころし、兄妹が通じて畸形児を出来したと云うような事件の傍らにあっても、我々は一生懸命に我々の顕著でない仕事に努力しよう。真心と智慧とを一に合せ、何よりも倦む事を恐れつつ進んで行こう。
不正な権威や腐敗せる社会へ反抗するための憎悪心――それは立派な徳の一つであり、現代に於いては極めて重要な感情の一つである。そして涙だらけな萎縮的な所謂「善」がこの種の憎悪心の行使に対して一つの阻害となる事も確かである。
然し、憎悪心の行使がその方向を過《あやま》る時、我れ我れは其処に初めて、恐る可き破綻を見るのである。職工とミサ子との場合は全くその好適例であろう。
それ故、憎悪心を何のように使い分け、何のように按配するかと云う事は、現代人に課せられた最も重要なそして最も困難な問題である。
だが此処には何がある? 今の私は余りに強い紛乱の中に落ちていて何も分らない。唯だ予想する。必ず未来に於いて、再び道は開けるであろう。忍耐せよ。何故にとは問うな。唯真直ぐに信じ、熱心に忍耐を実行して行くのである。そして此の事が私を勇気づける唯一の力となるに相違ない。斯んなに迄忍耐するからには、何か人間の理性の中に、きっと善いものが秘んでいるのだ。それを堅く予期せよ。外部に疑いが起ったら、眼を閉じて内部を見よ。
一通り悲しみが過ぎたら、必ず又直ぐ
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