云つた――
「では好い? 私が親指でこの穴をおさへてゐて上げるから、出来るだけ、そつと弾くのよ。」
 この悲む可《べ》き簡素を私は黙つてじつと見詰めた。と、手風琴は極く珍妙な節廻しで鳴り出した。女も興に乗つて来ると何かしら男へ向つて新らしい歌を弾くやうに註文し、さて、自身もあまり高くない声で、楽に合せつつ歌ひ出した。その歌曲には馬のひづめの音や、いななきを真似《まね》た音楽が仕組まれてゐて、可成りに興の深いものであつた。
 其処へ、いきなり声をかけたのは、同居者のシャンダーラム夫人であつた。彼の女は半白の髪を平らに撫《な》でつけ、白いレースで胸を蔽《おほ》ひ、恐ろしく大きい出眼を早く動かしながら、三人を一瞬の内に見廻して這入つて来た。
 彼の女は直ぐウラスマルへ斯う呟いたのである――
「お約束のカシミヤブーケは之だけしか上げられませんよ。」そして、前へ出した彼の女の黒い手には、二三滴の香水をひそませた一個の壜《びん》が握られてゐた。すると、例の若い女は急に頓狂《とんきやう》な声で笑ひ出し、そして、口早に軽侮の言葉を射放つた――
「この野暮な人が香水ですつて?」

       三
 それ程深い交際にと入り込んでゐる訳でない私は、其の後ウラスマルの新鮮な恋が何う進んでゐるかを実際に知る事が出来なかつたのも道理であるが、そのため、不思議にも、私の空想力は却《かへ》つて敏活に働くものの如く、実に次のやうな断定へと急いで行つた――
「彼れは貧困のため、女の歓心を充分に買ふ事が出来ないで今や非常に悩んでゐる。女は彼れよりも上段に立つて、むしろ、彼れを軽蔑《けいべつ》さへしてゐる。所で、ウラスマルはあの野暮な、何の取り柄もない体を飾る唯一のものとして、カシミヤブーケを選んだとは何たる気の毒な分別《ふんべつ》だらう。然も、それを自身の金銭で買ひ得ず、同居人から僅かに一二滴を貰ふと云ふのは充分悲惨で、憐愍《れんびん》す可き事ではあるまいか。」
 私は以上の断定を真実なものとして堅く信じ初めたのである。
 私がウラスマル及びその高慢な恋人に会つた日から四日後の事である。私は勉学に労《つか》れた頭を休めるため、桜の若葉を見ようとして、横浜公園の内部へと這入つて行つた。そして偶然にも、其処の或るベンチに、深く考へ込んでうなだれてゐるウラスマルを見出したのだつた。私は若《も》しや例の女性も来合してゐるのではないかとあたりへ眼をくばつた。然し、似よりの影も見当らぬので、私は直ぐ、ウラスマル君のうしろへと近づいて行つた。その時、突然、私の鼻を打つたものは、若葉の匂《にほ》ひから明確に分離してゐる、あのカシミヤブーケの高い香《かを》りであつた。その香りは又しても私の心底へ「恋の奴《やつこ》の哀れさ」を想起せしめるに充分であつた。
 私は彼れの肩をうしろからそつと叩《たた》いた。彼れは驚いて、彎曲にしてゐた背骨を急に反《そ》りかへらせた。見ると、彼れの眼は心持ちうるほうて、その深さを一層濃いものにしてゐるやうだつた。そこで私は彼れの率直な挙動を哀れがりつつ、慰め顔に斯う云つて見た――
「話して下さいよ。貴方の恋の事を……」
「恋?」と異国人は黒い眼を奥底から光らした。
「だつて、貴方の香水がそれを語つてゐますよ。」
「あゝ、それは大変ちがふ……あの若い女は最近本国から浮浪して来た乞食《こじき》の一種なんです。彼の女の腕環《うでわ》なぞも、高利をはらつて、或る印度商人から借りてゐるものに過ぎぬ。私は彼の女と二人きりで同席する事を恥ぢたからこそ、風琴迄持出して貴方を引きとめたのです。」と、彼れは悲しげな声でささやいた。

       四
 私は大きな悔いを以つて、自分の誤解と錯覚とを顧みた。何故であらう? その答へを簡単に語るなら、斯うなのである。
 ――四ケ月以前、ウラスマルは、本国に唯だ一人残されてゐた母親を、横浜へ呼び寄せようとして、自分の儲《まう》けた可成り大きい金子《きんす》を故郷へと送つたのであつた。母は直ぐ旅に立つた。彼の女の乗り込んだ船はS・S・Y・丸であつた。けれども、途中、その汽船は他の非常に大きい汽船の船首へと、右舷を打ちつけた。約十尺ばかりの大穴が船腹に開くと見るまに、傷附いた船は高い浪《なみ》の中に沈んで了《しま》つたのである。その時はまだ非常に寒い季節の中にあつた。云ふ迄もなく、母親は悲惨な死を遂げ屍骸《しがい》の行衛《ゆくへ》さへも不明となつたのである。
 ――その母親が生前、儀式の時に限り、好んで身へつけたのがカシミヤブーケであつた。毎日をひどい悲しみで送り迎へてゐた孤児のウラスマルは、偶然にも、一日、シャンダーラム夫人が母のと同じ香水をつけてゐるのを嗅《か》ぎ、深い感動の内に、彼れは亡《な》き母の姿を幻覚した。彼れは懐《なつ》かしさの余り、その香水を所有したいと云ふ欲望にかられ、ほんの一二滴をシャンダーラム夫人へ乞《こ》うた訳なのである。
 ――今日、彼れは自身の体へその香水を振り撒《ま》いた。それは元より恋するものの身だしなみとしてではなく、母の姿を追ふ孤児の、せめてもの思ひやりとしてであつた。――

 以上の告白を、とだえがちに語り終つた時、孤独な異国人のうるほうた眼は一層そのうるほひを増し初めた。苦痛の色は彼れの厳粛な前頭部を一層淋しく変化せしめた。
 深い――然し極く単純な感動が私の胸をも打たずには居なかつた。私はどもりつつ、自分の早計な独断を重ね重ね詫《わ》びた。
 闇《やみ》のおそひ初めた街路を一人で帰つて行く途中、私の心の中には異常に凄壮《せいさう》な大きい青海原《あをうなばら》が見え初めた。その冷却した透明な波の上に、少しも腐蝕する事なき四肢《しし》を形ちよくそろへた老婆の屍体は、仰臥《ぎやうぐわ》の姿で唯だ一人不定の方向へとただよつてゐた。
 私の眼は急に涙の湧き上る熱を感じた。私は思はず立ちどまり、もう一度、ウラスマルの居宅の方を顧みて詫び入りたい心持ちになつた。今ことごとく想起する事が出来るではないか? ウラスマルが曾《かつ》て窓から闇をのぞいて、二十分間もその体を静止したままでゐたのも、結局は、恋の思ひに打たれてではなく、彼れの不幸なる母の死を、ただ一人で悲しんでの事であつたに相違なかつた。
 私はウラスマルが曾て不図《ふと》口走つた次の如き言葉の断片を懐かしい感じの内に想起し得る。――
「闇は際限もなく広大なものではあるが、然もそれを見ようとすると、きはめて小さい部分しか目に写つて来ない。」
 恐らく、この言葉には何の特別な意味も理由もないに相違ない。けれども、一個の人間が折にふれてその心底に感じた通りを口に上せた言葉は、別に何の深い意味がなくとも、それ自身で充分愛するに足るものではなからうか? いや、強《し》ひて考へをめぐらすなら、この言葉はやはり「死」と何等かの関聯を持つたものとも云はれるだらう。死は確かに一つの深淵《しんえん》であり、我れ等の誰れもが未だかつて、その全様相を見きはめたと云ふ話を聞かぬからである。
[#地から2字上げ](大正十五年二月)



底本:「現代日本文学大系 91 現代名作集(一)」筑摩書房
   1973(昭和48)年3月5日初版第1刷発行
   1985(昭和60)年11月10日初版12刷発行
※ファイル中の「無器用」と「不器用」の混在、「四ケ月」の「ケ」を小書きしない扱いは、底本通りにしました。
入力:林 幸雄
校正:小林繁雄
ファイル作成:
2002年4月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたつたのは、ボランティアの皆さんです。
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