二
曾《かつ》て、私の不意の訪問が、ウラスマルの静かな心へ困惑と動乱とそして大きい羞恥をさへ与へた事を思うては、その後|成《な》る可《べ》くあの異人から遠ざかつてゐるやうにとの遠慮が私の心を占めるのは自然であつた。然も、私はウラスマルのすぐれた同族サーキヤムニの非常に珍らしい逸話の続きを、もう一度聞きたいと云ふ望みにかられて、再びあの無花果《いちじゆく》の立つてゐる庭へと足を向けたのである。尤《もつと》も、私はその場合でも、極く妥当な心づかひから、斯《か》う呟《つぶや》く事を忘れはしなかつた――
「明け方、早く、あたりが霞《かす》んでゐる内に彼を訪《たづ》ねて見よう。」私は夜の訪問で失敗したから、その失敗から遠ざかるため、全然類似せぬ時間を選んだ訳なのである。
印度人には早起きのものが至つて多い。私が朝日の昇るよりも早く、ウラスマルの家を驚かした時、彼れは既に髪を梳《す》き終へ、石油厨炉で一個の鶏卵をゆでてゐた。然《しか》し、見受けた所、彼の機嫌はこの日も別段すぐれて明るいと云ふ程ではなかつた。
私は彼れとの会話がさう容易には融合の中心へと這入《はい》つては行かないらしい事を、私は彼れの様子によつて漸《やうや》く察したので、自分の聞きたい話も要求せず、ただ時間が自然と流れるのを見詰めるより他仕方がないのを感じ出した瞬間である、ウラスマルはアツと発声すると共に、立ち上り、瀬戸物の敷きつめられた床をけたたましく走り出した。見る間に、彼は踏み台へ乗ると、例の窓から首を出して、純然たる印度語で、何かしらを外の方へ云ひ放つた。外からも直《す》ぐ答への声が聞き取れた。それはウラスマルの太い声に対比して、非常に細く、且つ音楽的であつた。
軈《やが》て、ウラスマルはその短く太い首をめぐらして、私の方を見ながら、最も稀《ま》れな微笑を見せた。その顔色の中に、私は又しても彼れの烈《はげ》しい羞恥心を読む事が出来たので、非常な悔いを感じつつ、遂《つひ》に椅子から立ち上つた――説明するまでもない、私は「悪い場所へ来合せて了つた」と云ふ意識で、自分を悩まし初めたのである。
「いや、その儘《まま》、居て下さい。」と、ウラスマルは掌と掌をこすり合せながら、右方の眼尻《めじり》へだけ小皺《こじわ》を寄せて、私に納得させ、それから次に、英語でもつて、外の客人へ、カムインと呼びかけた。
庭
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