かしさの余り、その香水を所有したいと云ふ欲望にかられ、ほんの一二滴をシャンダーラム夫人へ乞《こ》うた訳なのである。
 ――今日、彼れは自身の体へその香水を振り撒《ま》いた。それは元より恋するものの身だしなみとしてではなく、母の姿を追ふ孤児の、せめてもの思ひやりとしてであつた。――

 以上の告白を、とだえがちに語り終つた時、孤独な異国人のうるほうた眼は一層そのうるほひを増し初めた。苦痛の色は彼れの厳粛な前頭部を一層淋しく変化せしめた。
 深い――然し極く単純な感動が私の胸をも打たずには居なかつた。私はどもりつつ、自分の早計な独断を重ね重ね詫《わ》びた。
 闇《やみ》のおそひ初めた街路を一人で帰つて行く途中、私の心の中には異常に凄壮《せいさう》な大きい青海原《あをうなばら》が見え初めた。その冷却した透明な波の上に、少しも腐蝕する事なき四肢《しし》を形ちよくそろへた老婆の屍体は、仰臥《ぎやうぐわ》の姿で唯だ一人不定の方向へとただよつてゐた。
 私の眼は急に涙の湧き上る熱を感じた。私は思はず立ちどまり、もう一度、ウラスマルの居宅の方を顧みて詫び入りたい心持ちになつた。今ことごとく想起する事が出来るではないか? ウラスマルが曾《かつ》て窓から闇をのぞいて、二十分間もその体を静止したままでゐたのも、結局は、恋の思ひに打たれてではなく、彼れの不幸なる母の死を、ただ一人で悲しんでの事であつたに相違なかつた。
 私はウラスマルが曾て不図《ふと》口走つた次の如き言葉の断片を懐かしい感じの内に想起し得る。――
「闇は際限もなく広大なものではあるが、然もそれを見ようとすると、きはめて小さい部分しか目に写つて来ない。」
 恐らく、この言葉には何の特別な意味も理由もないに相違ない。けれども、一個の人間が折にふれてその心底に感じた通りを口に上せた言葉は、別に何の深い意味がなくとも、それ自身で充分愛するに足るものではなからうか? いや、強《し》ひて考へをめぐらすなら、この言葉はやはり「死」と何等かの関聯を持つたものとも云はれるだらう。死は確かに一つの深淵《しんえん》であり、我れ等の誰れもが未だかつて、その全様相を見きはめたと云ふ話を聞かぬからである。
[#地から2字上げ](大正十五年二月)



底本:「現代日本文学大系 91 現代名作集(一)」筑摩書房
   1973(昭和48)年3月5日初版
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