るのは穩當で、此賦の序文にさも尤らしく鞦韆は即ち千秋だと書いてあるのは、如何にも牽強附會を極めたものであるといふことは何人も首肯する所であらう。千秋の壽を祈りたる者亦必しも漢武に限ると云ふのでもあるまい。是に由りて之を觀るに、別に然るべき證據が提出さるれば格別、さもなきに於ては、鞦韆の根原を漢武に歸する説は成り立ち難い。天寳遺事に宮中寒食競立韆鞦、令宮嬪笑爲宴樂、明皇呼爲半仙戯とあるによれば、唐代には鞦韆を半仙戯とよびならした者とも見えるのみならず、韆の音は僊にも通ずる。恐らくは漢武の熱心に仙を求めたのと北方の遠征で有名なのとに附會して、鞦韆の濫觴茲に在りとしたものであらう。武帝説よりも更に甚しいのは鞦韆の起原を齊の桓公の山戎征伐に遡らせやうとする説で、古今藝術圖の北方山戎之戯とあるに原づき、山戎との交渉の始まつた時、即ち鞦韆は傳來したと斷じやうとするものである。山戎固有の遊戯であるか否かをも明にせず、又何時の頃から山戎の間に行はれたかをも吟味せずして唯山戎との交渉をのみ便りに論をなすのは詮のないことだ。春秋時代に支那へ鞦韆が渡らなかつたと云ふ反證はないけれど、其後久しく文献の徴すべきものがないことを考へると、さまでに古るい起こりでなささうに思はれる。けれども荊楚歳時記に三月寒食に行ふ遊戯の中に、鞦韆といふ名目があるから、假りに此宗[#「宗」は底本では「宋」]懍なる著者の年代が稱する如くに晋にはあらずして、之を梁の元帝頃の人だとする四庫全書提要の説に從ふとするも梁代には既に荊楚地方に行はれて居つたことを明かにし得る。而して北方山戎の戯が荊楚地方に行はれ、而かも年中行事の一となる迄には、相當の年代を經ることを要することをも併せ考ふる時は、鞦韆の輸入は梁よりも早かるべく、齊か宋か或は晋かも知れぬ。して見れば同じく北方蠻人との交渉から始まり、齊の桓公や漢武などではなくとも、五胡七國の頃に既に渡つたものと見るのが妥當だと云ふことになる。
支那の鞦韆が晋か六朝の初め頃からのものであるとしても、其時代の文献では其如何なるものなるかを知ることが出來ぬ。之を詳にし得るのは唐以後のものについてゞある。唐の鞦韆の樣式には樹枝を利用するものと特に柱をたてるものとの二種あつたらしく、其うちで樹枝を利用してそれに繩をかけ架をつるす方は、本來のやり方であらう。王建の鞦韆詞には嫋嫋横枝高百尺と
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