リ、其尖ナル事萬丈ノ岩壁ヲ見カ如ニ而、邂逅道理ヲ知ルトイヘトモ、改テ知ルト云事スクナク、タトヘ知ルトイヘトモ、江水ノ流ナクテ、塵芥之積リテ清ル事ナキカ如シ(中略)右之如之氣質故、頼母敷トコロ有テ、亦ナサケナキ風俗也」と云ひ又「人ノ形儀イヤシフ而、物語卑劣ナレトモ、勇氣正キ事、日本ニ可劣國トモ不被思也、因茲也朋友無益討果、主君ヘ志ヲ忘、父母ヘ孝ヲ忘ナトスル類、不知其數、雖男子上下トモニ勇ヲ以テ本トスル處ナレハ、偏鄙偏屈ナリトイヘトモ、潔キ意地アツテ恥ヲ知故、是ヲ善トス」とも云へるは、褒貶共に先づ要領を得て居ると云はなければならぬものであらう。
 國史に於ける奧州といふのは、先づ大體は上に述べた如くであつて、以て徳川時代に入つた。徳川時代には太平につれて偏僻の奧州も可なりの進歩をなし、人國記に「名人ノ名ヲ呼フ程ノ人ハ不得聞ヲ也末代以テ如此成ヘシ」と一言で以てけなされて居るにも拘らず、多少の人材を出し、日本全體の文明にも少は貢獻する所あつた。けれども大勢はやはり足利時代の通りで、絶えず上方の後塵を拜し來り、それが惰性をなして明治時代まで續いて居る。米國エール大學の教授にハンチングトンといふ人
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