から考へると太平洋沿岸の航海すら既に頗る危險であるから、まして風浪荒き日本海廻りに至つては、白石の所謂備さに難辛を極め、勞費最多くして遭利廣からざるものであつたので、彼の定西法師傳に在る天正頃琉球の日本町に奧州の者もあつたとの記事に至りては、其漂流人でない限り、少し受取りにくい話であるとしても、足利時代の奧州の海運は陸上交通と相俟ちて其開發を助けたもので、決して輕視すべからざるものと思ふ。
海陸の交通の發達に伴つて、邊鄙の奧州も段々に開けて來たことは、上述の如くであるが、然しながら奧州はやはり依然として文明進歩の遲々たる所で、足利時代を終つても、まだ/\上國と比肩する迄には行かなかつた。其の例を擧げれば數限りもないが前に一寸述べた安倍康季が日之本將軍と稱したのでも其一斑を窺はれる。此日之本將軍といふ名稱は、多分蝦夷を威かす爲めに用ゐたのであらうけれど、それにしても可笑しく立派過ぎて、夜郎自大の譏りを免れない。また鐵砲使用の年代に徴して見ても當時の奧州の文明が、どれ丈け上國よりも遲くれて居つたかゞ分かる。天文十二年に種子島に渡つたといふ鐵砲は、永禄の末にはまだ東國に少く、奧羽永慶軍記に
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