そ、耶蘇教もいち早く此方に入つたので、其事は日本西教史にも記されてあるのみならず、上述の平家物語と同じ持參道具の中に、念入りな宗教畫を張つた屏風のあるのでも證據立てられる。
足利時代に奧州地方が右の如き發達をなし得たのは、陸上交通の發達を前提としなければ、想像の出來難いことであるが、しかし各地方とも秩序の定まらなかつた當時のことなれば陸路の外に、海上の交通をも併せ考へなければ、十分な説明が出來ぬ。然らば此陸運は[#「陸運」はママ]どうであつたかと云ふに、彼の北畠顯信が義良親王を奉じて、伊勢から海路陸奧に赴かむとした事によつても、鎌倉末足利の初に既に斯かる航路の開かれて居つたことが分るし、又日本海廻りの航路に就いては、永享文安の頃、奧州十三湊の豪族安倍康季が、後花園院の勅命によつて、若州小濱の羽賀寺を再建したといふ、羽賀寺縁起の記事、若州の武田氏が北海道に渡つたとの傳説等によりて、鎌倉以來依然として、絶えずあることを知る事が出來る。蓮如上人御文章の第一帖に、上人が文明四年吉崎に坊舍を建て、暫し之を根據地とせし際の記事あり。其中に出羽奧州等七ヶ國の一向門徒此吉崎へ集まり參詣せしとあるが、
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