之果して如何であらうか。其所謂郡家なるものが今の閉伊郡の何の邊であつたかは不明であるが、多分は海岸に近い所であつたらうと想像されるからして、若し彼の「黄金花さく陸奧」といふ其黄金が、果して今の遠田地方から出たものとするならば和銅の郡家も、之を閉伊沿岸でも氣仙界から餘り離れぬ邊に置くのが安全であるのである。若しさうでなくして陸路拓殖を進めた結果として閉伊に郡家を置いたとするならば、前九年の戰などは、少し説明しにくゝなる恐れがあらう。つまり此和銅に郡家の置かれたといふ事は、察するに太平洋沿岸の航海區域が一段北に延長した爲と見るべきである。今日でも京都附近の神社に縁りのある神社が、出羽の方に多くして奧州の方に少く、又出羽の羽黒山の如く早く靈場として開け、且つ都人士の間に有名になつた山の、奧州の方に見出し難いことなども、予の上述の假定説を慥かにする種と考へて不都合がなからうと思ふ。大體拓殖の進んだ程度を以て比較すれば、奧州の方は藤原時代に至つて、漸く王朝の出羽位に開けたものだとするのが適當であらう。然らば何故日本北端の兩半に斯かる差異が生じ、且つ其差が久しく消えなかつたかと云ふに、出羽奧州兩國
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