淵河の流に沿ひて海に出づる通路、以上三筋程あるのみで此外に藤原時代の終り迄には、陸羽を結ぶ交通路とてはなかつたらしいのである。而して出羽奧州兩國間の交通果して此の如く不便であるとすれば、假令出羽の方の文明が、昔の奧州に比して一段進んで居つたものとしても、この優秀文明が直に奧州の方に影響するといふ譯には行かぬ。要するに日本國中最も廣く仕切られ、且開發の最も久しく停滯して居つた地方は即ち奧州で、其奧州の中でも殊に北上川流域、及び其以北に走る舊南部領などは、當時の日本全國中何處よりも進歩の遲くれて居つた地域と見做すを得べきである。
 此の如き日本のはてともいふべき奧州も漸次に王化に霑うたことは言ふを須ゐないが、前九年役の頃までは、所動的に霑うたといふのみで、自ら働きかけて上國の文明を輸入するといふやうな努力の痕跡が見えぬ。して見ると中尊寺を立てたり、佛像を上方の佛師に誂へ造らしめたりするやうになつた平泉中心の、即ち藤原時代の奧州は、阿部氏以前の奧州に比して、莫大の進境があると云はねばならぬ。而してこれは當然斯くなるべき筈のことであつて、遙か後世の今からして昔を回顧すれば、阿倍時代と相距ること、甚だ遠からぬやうにも思はれるけれど、計算すると前九年役の終りから文治年間の泰衡征伐までには、其間約百廿年の[#「約百廿年の」は底本では「約廿年の」]歳月を經て居るからには、進歩の遲い奧州とても、可なりの進境なかるべからざる譯である。然らば此進歩を促がしたことに與りて力のありしものは何々かといふに、奧州から上方に、觀光に出かけて歸つた人々と、上方の人士で遙々奧州に下り、優等なる文化の種を邊陬に撒いた人々と此二樣にある。上國から下向した者の例に就いては、花かつみの歌に風流をとゞめた流人實方卿の[#「實方卿の」は底本では「實力卿の」]如き縉紳は云はずもがな、前九後三の役に從軍して、家族移民をなした下級の者も等閑に附し難い。其外にも平泉藤原氏以前に於ては、若し奧州後三年記の記事を信じ得るとすれば、清原眞衡が其「護持僧にて五所うのきみといひける奈良法師」と碁を圍んだといふ話がある。平泉藤原氏時代の始めには、散位道俊といふ者が、清衡の許に赴き、弓箭の任に堪へざるを以て、筆墨を以て之に事へたと、三外往生傳に見えるもある。また良俊といふ公卿の清衡をたよつて陸奧に下向したのは、これ五位以上の者猥りに京
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