、前回にすでに述べたごとくであるが、彼の名の都はおろか、津々浦々のはてまでも永く記憶されたのは、一つにはその水茎の跡のかおりであって見れば、煩をいとわず今少しく彼の書について補いしるさんこと、必ずしも蛇足ではあるまい。実隆の入木道の妙を得、在来の御家流に唐様を加味した霊腕を揮ったことは、その筆に成れりという『孝経』によっても徴し得らるることであるが、彼が何人からしてこれを習い伝えたかは、予の不敏いまだこれを明かにしない。天稟にもとづいたことでもあろうが、必ずやしかるべき師もあったろう。あるいはまた古法帖などからして会得したところもあるかも知れぬ。とにかくに彼の能書であったことは、論をもちいぬのであるから、禁裏や宮方や武家の御用のほかに、随分と方々からの依頼があった。それにつれて[#「それにつれて」は底本では「それにつて」]筆屋や経師屋《きょうじや》の出入りも頻繁であった。経師では良椿|法橋《ほっきょう》というのが、もっぱら用を弁じたが、筆屋の方の名はわからぬ。ただし筆屋というのは、今日のいわゆる筆商ではない。諸所の注文により、先方へ出張して筆の毛を結ぶ職工である。彼らのある者は、たんに京都の得意を廻わって、筆を結びあるくのみならず、また田舎の巡業をしたものらしい。現に実隆の邸に出入した筆工のごとき、高野山の学僧だちをも得意としておったことは、実隆の日記にも見えている。筆工を喚んで筆を結ばす場合には、軸をばいずれから供給したか判明しないが、結ぶべき毛をば頼んだ方から差し出す。毛に狸毛と兎毛とあったことは今日と同様で、実隆に贈り物をする人の中には、気転をきかして兎毛を持ち込んだ者もあった。結び賃は、ハッキリとは知れぬけれど、享禄五年に実隆からして十六本の結び賃を筆工に払ったことがある。もちろん筆の種類によっても差等のあったことであろう。ただし当時における筆の供給が、一般にかくのごとき出張製造の方法によったかどうかは疑問である。おそらくは書道に心掛けのあって、特に筆に関して選り好みをし、かつ多く筆を需要した人に限って、かかる方法に出でたので、大方の人々は、筆屋の仕出し物で用を弁じておったこと、今日の需要者のごとくであったのかとも思われる。依頼によって実隆が揮毫する場合に、料紙をば多く依頼者の方からして差し出すこと、今日見る例と変わりがなかったらしい。依頼を受けた書の種類は一様ではなく、『源氏』を始めとして長編の物語類、歌集類、諸種の絵詞、画賛画幅、色紙、扇面等で、中にも色紙と扇面との最も多かったのは当然のことだ。しかして実隆の書いた色紙や扇面は、彼の存在中すでに骨董品として珍重され、贈答品として流行した。あるいは売買の目的物となっておったのかも知れない。以上のほかに実隆は禁裏の仰せによって浄土|双六《すごろく》の文字などを認めたこともあり、また人のために将棋の駒をも書いた。将棋の駒に書くということが、いかにも書家の体面に関するとの懸念があったのか、明応五年に宗聞法師から頼まれた時には、「予は不相応にして、いまだ書を物に試みざるなり、叶うべからず」といって、これを断わったのであるけれど、その翌年姉小路中将から懇望せられ、再三堪えざる旨を述べて辞退したがきかれず、やむを得ず書いてやった。すると続いて伊勢備中守からしての所望があった。一旦筆を執った上は断わることもできず、直ぐさまこれをも書いてやった。それからして同様の注文が追々とあったらしく、書いてやった先きの人に招かれて、己の書いた将棋を翫び、大いに興を催したことなどが彼の日記に見えている。
他人に書いてつかわしたばかりでなく、実隆はまた自分のためにも書写した。心願あって書写したという『心経』や『孝経』のほかに、自分用の『源氏物語』をも写した。五十四帖の功を竣《おわ》ったのは、文明十七年の閏三月で、これをばよほど大切にしたものと見え、延徳二年の十月には、わざわざ大工を喚《よ》んでこれを納るべき櫃を造らしめた。題銘をば後成恩寺禅閤兼良に書いてもらったのである。しかるに永正三年八月、甲斐国の某から懇望され、黄金五枚千五百疋でこれを割愛した。その後享禄二年の八月に、肥後の鹿子木三河守親貞から切に請われて、また一部を割愛した。その代価は先のよりは高く二千疋である。惜しいことではあるけれど、やむを得ず売り払ったとあるからには、活計の都合によったものであろう。享禄二年は永正三年を隔つること二十三年であるから、二度目に売った源氏というのは、おそらくこの間に新たに書写したのであろう。ただし永正三年に売った時には、それと入れかわりに、破本の『源氏』を四百五十疋で買い入れたとあるからして、あるいはその不足分七冊のみを実隆がみずから補写し、それを享禄二年に売ったのかも知れぬ。二度目に売った時は、実隆の齢す
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