その行き詰まった末には遂に頽廃期に入るべきものである。しかしながら足利時代において認め得べき変化は単にこの種のもののみではない。換言すれば鎌倉幕府は失敗に終ったとはいいながら、武家政治がともかく一たび開設せられたということは、まったく歴史に影響を及ぼさずにはいられぬ重大なことであって、足利時代というものは、ある意味における武家政治の継続になる、公卿化したとはいいながら、将軍およびその臣隷は武人に相違ない。もし承久の事変に宮方が勝利を得たと仮定しても、それは足利将軍が京都から号令した有様と異ったものでなければならぬのであるが、いわんや藤原時代にいたっては、承久時代ともまた大いに相違があるからして、足利時代は決して藤原時代そのままの再現であり得ぬのである。要するに足利時代は武人化したる藤原時代ともいえる、復古とはいいながら中間に挾まった鎌倉武家政治の影響を少なからず受けている。さてそれならば、武人化するというのはいかなる意味か。およそ武人化したという義の中には、世の中において武力によって決せられる場合の多くなって来て、事実上の執政者の間に尚武の気象が旺盛になったという点もある。足利義尚の六角征伐のごときは、藤氏全盛時代の公達《きんだち》には見られぬ現象であって、この見地からするも両時代の差を分明に示すものであろう。しかしながらこのほかにも武人化なる語に尚別の意義がある。
元来藤原時代の文明はすこぶる階級的な文明であった。この文明の下に庶民もいくらかの進歩をなし得たことはもちろんであるけれど、それはいずれの階級的文明にもあることで、この文明の浸潤がある故をもって、藤原時代の文明がかなりに庶民をも眼中に置いたもので、すなわち階級的なるに甘んじた文明ではないというのはこれ少しくいい過ぎた論である。そもそも庶民を眼中に置いたか否かが階級的であるないの標準となるものではなく、上流社会が庶民を自分らとははるかに隔った徒輩と目して、もってこれを眼中に置くということがそれがすなわち立派な階級的精神である。さてその階級的であった状態からして、次第に平等の域に向って移り行くのには、かの慈悲とか憐愍とかいうように、己を先ず一段高き地位に標置して、それから下に向って施すところのその厚意に基くことははなはだ稀であって、多くは上流者が下級者の己に接近するのを認容することによって実現されるのだ。し
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