。ずいぶん逼迫した公卿もあって位階昇進の御礼に参内する際、武人の袍《ほう》を借り受けて間に合わした者もあるくらいだ。ただ読者の注意を促しておきたいのは、彼らの全部が、彼の蚊帳を著ておった某公卿のように、洗うがごとき赤貧でもなかったということである。禁裏の供御とても不足がちには相違なかったけれど、その不足は必ずしも幕府の専横からして来るばかりではなく御料所内の百姓の横着か、または村の有力者の私曲から起因することもあった。しかしそれらが滞りなく納入になったところで、その金額がたいしたものでなく、ずいぶん余裕の少ない御経済であったことはいうまでもない。費用のないところから即位式をも往々にして省略されたのは、けだしそのためであろう。しかしながら恒例の節会《せちえ》等の停廃をもって、直ちに宮廷の御経済向き不如意のためと、一概に断定するわけにはゆかぬ。というわけは、御料からの収入で支弁さるべきものと武家から差上ぐる御用脚で支弁さるべき分とその間おのずから区別があって、もし武家からの差上金が滞うる場合には、それがためにそれによって支弁さるべき儀式を見合わせられるので、必ずしもこれをもって官帑《かんど》全くむなしかったためのみということができぬからである。時には武家累代の重宝と称せらるる掛物が、武家からして質屋に入り、遂に質流れになったのを、二千疋以上を投ぜられて、御府に御買上げになることもあった。公卿の家に持ち伝えた日記を、その家の微禄のために散佚の恐れあるを憂えられて、代物を賜わって宮中に召置かるることもあった。従来歴史家がややもすれば王宮の式微を叙すること極端に失し、はなはだしく御逼迫のように説くのは、後に起こった勤王論と対照さすために、あるいは必要なことかも知れぬけれど、実際よりもはなはだしく御窮乏を叙し奉るのは、かえりて恐れ多いことだろうと考える。三条の大橋からして御所の燈火が見えたという話は、人のよく知っていることであるが、これは必ずしも御所の大破損のために燈火の洩れたのと断言ができない。兵乱のために京中の人屋一時ことごとく曠野と化した時、御所の東門からして鴨川原まで一望し得るようになり、したがってその荒野原で噛み合いをした犬どもが禁裏の中に紛れ込んで、しばしば触穢《しょくえ》の原因をなしたということがあるから、多分同じころ一時の現象として、御所の燈火も大橋から見えたの
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