で一旦は拒まれんとしたがせっかくに願い出でたるに対しこれを拒むことになると、武家の面目を傷つけ、感情を害する恐れがあるとの説が通って、ついに参内を許さるることになったのであった。しかしそれでもなお不平な公卿があって、禁色を聴《ゆる》された者が雑役に服する例のないことを言い張り、将軍参内当日には祗候せぬ、とダダをこねた話もある。将軍に対しての待遇すでにかくのごとくであるからして、公卿と武人との交際においてもまたこれに類することが往々にしてあった。たとえば連歌の会のごとき、風流の席であって、必ずしも階級をやかましく言わず、公卿も武人も地下も、共に膝を交えて韻事を楽しんでいるように見えるけれど、その実はなかなかそんなに平民主義の徹底したものではなく、階級の障壁をばあくまでも取り除くまいとつとめた。ある年の始めにさる公卿の家で連歌の発会のあった時、杉原某という武人が講師を勤めたことがあるが、それに出席した一公卿は、雲客坐に在るにもかかわらず、その中から講師を選ばず、また主人の公卿がその任に当ることもなさずして、この名誉の職を武辺者《ぶへんもの》に勤めさすということは、はなはだ不審なことだと、その日記に認めている。畢竟《ひっきょう》貴族が己れの都合によっては、下級の者と伍することをいとわぬのは、一見平民主義から来ている現象のごとくではあるが、もし下級の者がそれらの貴族を対等視することになるとたちまちにして彼らの階級的の誇を傷つけ、不平の念を起こさしめるということは、要するに真に平民主義な貴族のはなはだ少ないことを証するものであるが、足利時代の公家の心理はまさにそれであった。武家を軽蔑するけれど、抵抗の無益なことはよくわかっているから、無謀な企てをばなさぬ。そのかわりにできるだけ武家を利用してやろう、これが公家らの立場であったのである。故に前にも述べたとおり己らの荘園からして全然地頭を斥《しりぞ》けようとはもはや試みぬかわり、それらの武人らに頼んで、取れるだけの年貢をとるようにする。百姓らが納め渋ぶる場合に武家の命をもって催促させる。御奉書を出させる。それだけでは武人の方に利益がなく、真面目に依頼の件を実行してくれそうにもない場合には、もし催促の利目《ききめ》があって首尾よく年貢が納まるならば、その半分を周旋した武人にやろうと利をもって誘う者もある。
これに類するような公私種
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