は非常に貴いというほどでなく、父なる公保は正親町三条から入って西家を嗣いだためか内大臣まで歴進したけれど、養祖父実清の官歴はさまでに貴くなかった。養曾祖父とても同様である。しかして槐位まで達し得たかの公保すらも、その在職極めて短くして辞退に及んだ。これは家格不相応の昇進をなした場合によくあることである。つまり今日いわゆる名誉進級という格だ。また実隆の親類を見渡すにあまりに高貴な家は少ない。母は甘露寺家の出で房長の娘親長の姉である。妻は勧修寺教秀の女で、実隆の子公条の妻もまた甘露寺家から嫁入りをしている。要するにその一族の多くは、今の堂上華族中の伯爵級なのである。それらからして考えれば、実隆の生家というものは、公卿の中で中の上か上の下に位すべき家筋であるのであって、この家柄のよいほどであるという点は、すなわち実隆をもって当時の公家の代表者として、その生活を叙すると、それによって上流の公家の様子をも窺い、あわせて下級の堂上の状態をも知らしめることができる所以なのである。もし当時において誰か一人の公家を捉えてこれを叙するとすれば、実隆のごときはけだし最もよき標本であろう。のみならずかかる叙述をなすにあたっては、なるべく関係史料の豊富な人を択ぶ必要があるのに、幸いに実隆にはその認《したた》めた日記があって今日までも大部分は保存されてあり、足利時代の公家の日記としては、最も長き歳月にわたり、かつその中にある記事の種類においても最も豊富なものの随一であるという便がある。当人の日記がすでにかようの次第である上に、なおこれを補うべき史料としては、実隆の実母の弟甘露寺親長の日記もあり、また実隆の烏帽子子《えぼしご》であった山科言継《やましなことつぐ》の日記もある。相当に交際のあった坊城和長の日記もある。また公家日記以外にも、その文学上の関係からして、実隆についての記事は、連歌師の歌集やら日記等に散見していること少なくない。かかる事情は研究者に多く便宜を与うるものであり、したがって予をして主題として実隆を選択せしめた重《おも》なる理由の一つになるのだ。しからばそれら史料の利用によらば、実隆その人が目前に見えるように理解され得るのかというに、なかなかそうはゆかぬ、はがゆい事はなはだしい。しかし十分ならぬ史料からして生きた人間を元のままに再現することは、化学的成分の精密に知れている有機物を
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