この均一の状態に近づいたという点は、すなわち文明の波及の行き届く下地になるので、この点において足利時代は、鎌倉時代および藤原時代にまさっており、この均一が基礎をなしたればこそ、徳川時代の大統一ができたのだ。
 論文の前半を終るに臨みて最後に付け加えておきたいことは、旅行と不安の念との一般の関係である。商売その他利益を得ることを目的とする旅行においては、その利益のために相当な危険を冒すことは、多数の辞せざるところだ。したがって大なる利益を獲得する望みがある場合には、大なる危険をも意とせぬことしばしばである。しからば獲利を主眼としない、たとえば快楽のための旅行はどうであるかというに、これとても不安の状態のために全然妨止せらるるものとはいい難い。否、多少の不安の念は、旅行者に与うるに、旅行に必要な設備の具|全《まった》からざるものとは異るところの一種の快感をもってするものである。言語不通の外国に旅行しても、なお一種の興味を感ずるのはすなわちそれだ。というとあるいはその場合における興味は不安の念からして来るのではなくして、新奇なる事物に接触することから来るところの快感だというかも知れぬが、新奇なものが何故に快感をひき起こすかというに、それもやはり不安の念を発せしむるからではあるまいか。不安の念はすなわち驚喜の感の前提である。何ごとも予期どおりになることのみが必ずしも旅行の興味ではない。一つ卑近な例をとってこれを説明しよう。わが国で数年前に茶代廃止運動というものがあった。この運動の目的は、旅行者のために無益の費用を節減すると同時に、置くべき茶代の額を見計らいする心配を除こうというにあったのだが、この心配を除くのがすなわち不安排除だ。ちょっと考えると誠に結構な運動のようであるが、この運動は一時多少景気づいたけれども、間もなく廃《す》たれてしまって、今日このごろでは茶代廃止旅館などという看板を出しておく宿屋はほとんどなくなった。しからば何故にこの美挙が失敗に終ったかというに旅客が浪費を好むからだというわけではない。他にもいろいろ原因があろうけれど、主として不安の念を勦絶《そうぜつ》しようといういらぬ世話が旅客に好まれぬからだ。この茶代の見計らいのごときは、不安の中でも最も危険の少ないものであるから、どうでもよいようなことであるが、そもそも不安の念というものは、元来旅行にとりて嫌う
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