北陸、山陰、山陽の五道に進発するのには、国尽くしに挙げてあるような順序で国々を通り貫いたものと合点したがる。かように考えれば、なるほど東山時代に交通の障碍が到る処に横わり、いかに強い力のある文明でも伝播ができず、日本の大部分が暗黒に想像されるのも無理はない。しかしながらかく想像したのでは、大内家と京都との関係のごときはまったく説明のできぬことになる。船舶というものの広く用いられなかったその昔のことならばいざ知らず、いやしくも航海の相応に行なわれるようになった以後の時代においては、日本のような環海の国にあって、交通が専ら陸路にのみ便《たよ》るというわけのあろうはずがない、海に風浪の難があるというかも知れぬけれど、陸上にも天然の困難がないでもない。兵庫なるもののかつて用いられたことのない日本において、坦々たる大道の存在を足利時代以前に想像することは不可能であるからして、狭隘と峻険とは共にしばしば旅客の忍ばねばならぬ苦痛であったろう。また陸には覆没の憂いがないにしても、旅舎の設備の不完全は、海上の旅行者の嘗《な》めずにすむところの欠乏であった。海には海賊の禍があるとするも、陸上とても群盗所在に出没した。この点においては海陸ほとんど択ぶところがない。されば乱世のために陸路が往々|梗塞《こうそく》を免れなかったとしたところで、海というもののある以上、足利時代の交通がはなはだしく阻礙《そがい》されたと考えるのは、少しく早計ではあるまいか。いわんや陸上の危険においてすら、足利時代必ずしも藤原時代よりもはなはだしかったとは、にわかに断言し難いことを考えると、われわれは強いて足利時代における文明の伝播を否定するにも当らぬことになる。
論者は往々にして足利時代殊に応仁以後の群雄割拠の状態から概論して、これを乱世だという。また群盗の横行に徴してこれを秩序|紊乱《びんらん》の時代だとする。足利時代はその太平|恬熈《てんき》の点において、むろん徳川時代に匹儔《ひっちゅう》し得べきものではないが、しかしはたして藤原時代よりも秩序がはなはだしく紊乱しておったであろうか。足利時代の記録によって、京洛の物騒なことを数え立てる人もあるかは知れぬが、京都はその実平安朝時代から物騒な所であったのではないか。かつずっと古い時代の記録に地方群盗の記事の少ないのは、必ずしもその事実上稀少であったという証拠とは
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