換言すればこの点において足利時代における一種の文化の代表者である。足利時代はその終りに至るまで、ついに『源語』的趣味の滅絶を見なかったが、実隆のごときはこれに与《あずか》って大いに力ある者であろう。
実隆にとっては宗祇は師でもあり友人でもあったので、必ずしも彼に教えを仰ぐのみではなかった。前条に述べた研究会のごときはすなわちその一例であるが、歌道においても、宗祇の方からして実隆の批評を求むることもあった。文明十八年の暮に宗祇が独吟二十首を実隆に示して批評を求めたなどに徴してもわかる。その時に実隆はかれこれ批評すべきわけではないけれど、たっての要求故にやむを得ず厚顔至極をも顧みずして心底を述べておいたと、その日記に書いている。されば文明九年ごろからして始まったこの両人の交情は、普通の師弟関係とは異なり、宗祇が実隆に負うたところのものも、また決して少なからぬことであった。宗祇が室町殿に出入し、その連歌の会に臨んだのは、よほど以前からのことらしく、長享二年三月には義尚将軍からして連歌会所奉行を仰せ付けられた。これより以来この奉行人を時人呼んで宗匠と号したと、『実隆公記』に見えているが、これけだし宗匠なる名の濫觴《らんしょう》であろう。しかしてこの会所開きの会が長享二年四月の始めに催された。されば宗祇もその殊遇に感じ、将軍薨去の後、延徳二年三月に、故将軍すなわち常徳院殿のため、四要品を摺写し、十人ほどに勧誘して、和歌を詠ぜしめ、これを講じたことがあって、その時には実隆もその経の裏に歌を書いてやったとのことだ。これらから推しても、宗祇はその幕府との関係において、実隆の推挙によったのではないらしいが、『新撰菟玖波集[#「新撰菟玖波集」は底本では「新撰菟※[#「王+攵」、第3水準1−87−88]波集」]』の修撰のことから延《ひ》いて、宗祇と宮廷との関係を生じたのは、これはひとえに実隆の取成しによったもののようだ。明応四年修撰に関して兼載との葛藤のあった際に、親王家に申し入れて、その御内意を宗祇に伝え彼を安堵《あんど》せしめたのは、すなわち実隆その人で、その際に宗祇は御蔭で胸襟愁霧を披《ひら》いたといっている。『新撰菟玖波集』二十巻がいよいよ出来上り、宗祇が肖柏、玄清、宗仲等を率いてことごとくこれを校訂し、九月十三日をもって恭しくこれを禁裏に奉献すると畏くも禁裏からは、御感の趣の
前へ
次へ
全72ページ中62ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
原 勝郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング