味が最上のものであると考うるに至ったのは、将軍が京都に柳営を開き、一種の公武合体を成し、これに伴って日本の文化も統一しかけ、しかして王朝気分の復活となった、その足利時代のことである。もし足利時代をもって日本文化のルネッサンスといい得べくんば、そのルネッサンスの中心は『源氏』である。『源氏』は足利時代において始めて日本の『源氏物語』となったのである。『源氏』を読まずして足利時代の文化を理解することは、ほとんど不可能といってよろしい。足利時代の物語類の、千篇一律に流れているのは、その根柢においていずれも『源氏』を模倣するかで、これをもっても当時における『源氏物語』の勢力が推測される。しかして実隆は実にこの『源語』の熱心なる研究者であり、擁護者であった。
 実隆が『源語』を読み初めたのは何歳ごろからのことであるか、日記ではこれを詳《つまびらか》にし難いが、けだし文明の初年からのことであろう。始めは師に就いたのではなく、『花鳥余情』とか『原中最秘抄』などいう註解本によって研究したらしく、相談相手としては、牡丹花肖柏が出入したらしい。肖柏が実隆の少時よりの交友であることは、日記大永七年四月肖柏堺に歿した記事の中にも見えるとおりであるのみならず、肖柏の名の日記に見えているのが、宗祇の名よりも早いところからして考えても、実隆は先ず肖柏を知り、しかるのち宗祇を知ったらしい。文明八年の八月十九日の条に、この晩肖柏が来て『源氏物語』「夢浮橋」の巻を書写してくれと懇望したとある。あるいは肖柏の手引きによって、実隆は宗祇と近づきになったのかとも思われる。宗祇に関する記事の始めて日記に出ているのは、文明九年七月宗祇の草庵において『源氏』第二巻の講釈があって、実隆が連日これを聴聞した記事である。こののち文明十七年まで宗祇から『源氏』の講釈を聞く話はない。日記にも闕漏はあるが。それのみならず宗祇がその地方遊歴のために、講義を開く折がなかったからでもあろう。文明十七年の閏三月の下旬、五十四帖書写の功成ったというので、その晩宗祇と肖柏とが、実隆の邸に来り、歌道の清談に耽りつつ、暮れ行く春を惜んだとのことである。この写本が出来てからして、『源氏』の講釈はまた開講せられたが、このたびは宗祇の種玉庵においてではなく、実隆の邸において催されたのである。宗祇は宗観、宗作、または玄清等の同宿をかわるがわる連れて
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