一様ではなく、『源氏』を始めとして長編の物語類、歌集類、諸種の絵詞、画賛画幅、色紙、扇面等で、中にも色紙と扇面との最も多かったのは当然のことだ。しかして実隆の書いた色紙や扇面は、彼の存在中すでに骨董品として珍重され、贈答品として流行した。あるいは売買の目的物となっておったのかも知れない。以上のほかに実隆は禁裏の仰せによって浄土|双六《すごろく》の文字などを認めたこともあり、また人のために将棋の駒をも書いた。将棋の駒に書くということが、いかにも書家の体面に関するとの懸念があったのか、明応五年に宗聞法師から頼まれた時には、「予は不相応にして、いまだ書を物に試みざるなり、叶うべからず」といって、これを断わったのであるけれど、その翌年姉小路中将から懇望せられ、再三堪えざる旨を述べて辞退したがきかれず、やむを得ず書いてやった。すると続いて伊勢備中守からしての所望があった。一旦筆を執った上は断わることもできず、直ぐさまこれをも書いてやった。それからして同様の注文が追々とあったらしく、書いてやった先きの人に招かれて、己の書いた将棋を翫び、大いに興を催したことなどが彼の日記に見えている。
 他人に書いてつかわしたばかりでなく、実隆はまた自分のためにも書写した。心願あって書写したという『心経』や『孝経』のほかに、自分用の『源氏物語』をも写した。五十四帖の功を竣《おわ》ったのは、文明十七年の閏三月で、これをばよほど大切にしたものと見え、延徳二年の十月には、わざわざ大工を喚《よ》んでこれを納るべき櫃を造らしめた。題銘をば後成恩寺禅閤兼良に書いてもらったのである。しかるに永正三年八月、甲斐国の某から懇望され、黄金五枚千五百疋でこれを割愛した。その後享禄二年の八月に、肥後の鹿子木三河守親貞から切に請われて、また一部を割愛した。その代価は先のよりは高く二千疋である。惜しいことではあるけれど、やむを得ず売り払ったとあるからには、活計の都合によったものであろう。享禄二年は永正三年を隔つること二十三年であるから、二度目に売った源氏というのは、おそらくこの間に新たに書写したのであろう。ただし永正三年に売った時には、それと入れかわりに、破本の『源氏』を四百五十疋で買い入れたとあるからして、あるいはその不足分七冊のみを実隆がみずから補写し、それを享禄二年に売ったのかも知れぬ。二度目に売った時は、実隆の齢す
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