、「孟光いささか述懐の儀あり、不可説の事なり」とある。実隆が夫人から何事を述懐されたのかは記してないから、夫人が引退を勧めたのか、または抑止したのか、その辺は知り難い。とにかく実隆は内大臣にしてもらいたいと歎願に及んだ。一旦大臣になりさえすれば、直ぐに引退するということを、最初からして条件にして願っている。そこで朝廷では空位である左大臣へ、右大臣の尚経を転じさせ、その後に内大臣の公藤を移し、もって実隆を内大臣に任命した。任ぜられたのは二月の五日で、在職わずかに二か月、任大臣の拝賀をも行なわないで四月五日に致仕した。時に年五十四、実隆が引退すると、その翌年に公条が参議になり、従三位に叙せられた。実隆の希望どおり、相続がめでたく行なわれたのである。
 致仕後の実隆は望みを官場に絶ったから風流|三昧《さんまい》に日を暮らした。永正十二年に従一位に叙せらるべき勅定があったけれども、固く辞し奉り、翌永正十三年春の花が散ると間もなく、四月の十三日というに、照雲上人を戒師と頼んで盧山寺において落飾し、法名堯空、逍遙院と号した。後世永く歌人の間に尊ばれた逍遙院内府の名は、これからして起こったのである。実隆は致仕以前からしばしば異様の服装で外出をしたもので、嵯峨の先塋《せいえい》に詣ずる時などは、三衣種子袈裟をもって行粧となしたとある。いかなる服装かまだ調べては見ないが、「十徳の体」と自分で日記に認《したた》めているから、大抵は想像される。実隆はこれ家計不如意のためにやむを得ずやった服装だといっているけれど、一には彼の好みでもあったらしい。日記永正五年六月十八日の条には、夜一条観音に参詣するのに、山臥《やまぶし》の体をしたとある。されば落飾後、平素黒衣を著し律を持したというのも、さもあるべきことで、これからして天文六年後の物故するまで全く遁世人の生活をなし遂げたのである。
 普通尋常の一公卿を中心人物としての記述ならば、予が今まで説いただけでも、それすらすでに大袈裟に過ぎるので、その上にさらに呶々《どど》弁を弄する必要はないのであるが、事実上の主人公を三条西実隆にとった本篇においては、なお一回読者の忍耐を濫用しなければならぬ廉《かど》がある。それはほかでもない文筆殊に歌道の方面からしての宗祇およびその他との関係である。
 当代能書の第一人として、禁裏からしばしば書写の命を受けたことは
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