瞰下せば、各※[#二の字点、1−2−22]院の一半を監視し得べく、號舍に就ける士子等の妄動を禁じ得べきものなり。監視の設備の甚しく嚴重なるは、人をして近世式の監獄を聯想せしめ、狹矮なる號舍の櫛比は、曾て米國市俄古にて見物せし、ユニオン・ストック會社の家畜市場を思ひ起こさしむ。江南二省二萬餘の士子此一試場に會して才華を鬪はし、而かも登第僅に約百五十人のみと云ふに至りては、蓋しこれ文明の一大偉觀にして、歐米諸國と雖、之に比隆すべきものあらず。
 菜の花を路のしるべとして西すれば即文廟なり。文廟と貢院との前なる秦淮に沿へる廣道は、我國の淺草奧山又は新京極に譬ふべき遊觀の區にして、長髮賊の亂後は、曩きは報恩寺邊に集中せる百戯雜伎皆此處に薈まり、終歳遊人※[#「虫+豈」、747−8]の如くなりと云ふ。革命の亂後其繁華大に衰へ、予の金陵を過ぎりし頃は、また往事の面影を止めざりしも、尚ほ雜閙他に優るものありき。程一※[#「くさかんむり/(止+頁+巳)/夂」、第3水準1−15−72]金陵賦に云へらく、「矧主司入[#レ]※[#「門<韋」、第4水準2−91−59]之日、多士赴[#レ]試之期、走[#レ]馬看[#レ]榜之夜、鳴鹿吹[#レ]笙之時、士女如[#レ]雲、車馬四溢、譚者雖[#二]舌敝而賑焦[#一]、猶未[#レ]能[#レ]髣‐[#二]髴其萬一[#一]、」と。憾むらくは予の彼地に遊べるや、時に後くれて此盛況を見るに及ばざりしを。此よりして南利渉橋を渡れば、即これ有名なる秦淮の酒家なり。余懷が板橋雜記に、「逢[#「逢」は底本では「蓬」][#二]秋風桂子之年[#一]、四方應[#レ]試者畢集、結[#レ]駟連[#レ]騎選[#レ]色徴[#レ]歌、」と記るし、科に逢ふ歳の陰暦八月此歌舞の郷亦其餘惠を受け、「平康之盛事」を現じたりと云へり。而かもこれ「文戰之外篇」なれば、今詳に之を説くの要なし。窃かに惟ふに秦淮の盛は時ありて或は疇昔を凌駕すべきも、覺醒せる支那は永く科擧の制を復興することあらざるべし。人は曰く支那を衰へしめたるは科擧なりと。嗚呼科擧果してそれ罪すべきか。
 論者動もすれば云へり、科擧は國の殃なりと。清朝の大厦將に傾かむとせるや先づ科擧の制を廢して國を濟はむとせり。而して科擧廢せられて幾ならず國亦滅びたり。若し科擧を以て支那の衰へたる主因となさば、蓋し寃枉[#「寃枉」は底本では「寃抂」]の最も甚しきものならむ。一千有餘年以前よりして科擧の制を行へる支那に、請託牽引の跡を絶たず、無能菲才の屡重用せられしを以て、直に科擧の效能の微小なるが爲めなりと論ずるは、これ試驗なる者の效果を過大視するより來る僻論なり。輓近文明諸國は率ね其文武官の任用に際し試驗を行へども、其登庸昇進必ず能否に比例し、全く怨嗟の聲を絶つに至れるもの、蓋し求め得難し。曷んぞ獨り科擧の制を行へる支那をのみ責むべけんや。科擧に採るべき點は、其原則に存し、官吏の任用に公平を以て第一義となし、最も自由競爭を尚べるに在り。歐米諸國に在りて所謂舊套時代に屬する十八世紀は論ずるを須ゐず、下りて十九世紀に入りても、其前半には試驗任用の制未だ行はれず。歐洲諸國中の先進にして、且つ最も民主的なりと稱せらるゝ英國に在りてすら、自由競爭を原則とせる文官試驗制度の一般に採用せらるゝに至りしは、一八七〇年以後のことにして、武官の任用に至りても久しく買官制を行ひ以て一八七一年に至りたりき。當時買官制廢止論に反對せる者の説に曰く、試驗任用法なるものは、之によりて以て多少の公平を期し得べきも、公平なる美名の下に不世出の偉材をして屡櫪間[#「櫪間」は底本では「※[#「てへん+歴」、749−8]間」]に老いしむる恐れあり、官職賣買の制固より其弊害なきにあらざるも、之により雋傑をして一躍適所に就くを得せしむるものなれば、遽に之を更めて試驗法を採るべきにあらずと。此論は十九世紀の始め議院改良論の英國に起り、先づ人口稀薄の獨立選擧區を罷めむとせし時、ヰリアム・ピットが曾て斯かる rotten borough より選出せられ、少壯にして首相となり得し例を論據として、以て改正の不必要を唱へたると同一軌のものにして、公平を犧牲に供して以て人材の拔擢に便ならしむべしとするものなり。若し夫れ老朽者をして安んじて職を退くを得せしめ、兼て有爲の新進の爲めに路を開くには、其官職の賣買を禁ぜざるを可とすと云ふに至りては、詭辨の甚しきものなり。超群の拔擢を必要とする人材の極めて稀にして甚逢ひ難きにも拘はらず、其僅に指を屈すべき少數者の爲めに、多數者の利益を無視し、其競進の道を杜絶するの不合理なるは論を竢たず。若し夫れ試驗法の採用によりて起こる人材壅塞の弊と俊材拔擢の名の下に行はるゝ嬖幸寵進の害とを比較せば、兩者の利害得失火を睹る[#「睹る」は底本
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