では「賭る」]よりも瞭かなるあるべし。況や初任に際して試驗法によるは、必しも爾後に於て穎脱の逸材を拔擢するを妨げざるものなるをや。斯かる試驗法をも非とするは、これ即ち其試驗に合格し得ざる輩の中に強ひて多數の偉材の潜むを想定するものにして、頗る實際に遠き空論たるを免れず。宜なり歐洲諸國今多く試驗法を採用し、北米合衆國亦濫任の弊に懲りて一八八三年より文官任用試驗を行ふに至れること、蓋し皆進歩の大勢に驅られて爰に至りしものならずんばあらず。されば支那が千有餘年以前よりして科擧試驗を行ひ、歴朝次第に改良を加へて、遂に南京貢院の如き大營造物の必要を見るに至りたること、これ最も多とすべくして、決して嗤笑すべきにあらざるを知るべし。主義の透徹と否とは暫く措て之を論せず、公試によりて廣く人材を求めしことの、遠く歐米諸國に先てる、これ即ち支那の先進國たる所以にして、支那の文明が夙に其發達の頂點に達しながら、而かも久しく解體を免れ、積威を維持し得たりしは、主として此科擧ありしが爲め、階級制に伴ふ腐敗を殺ぎ得たりし故なり。支那に若し科擧あらざりせば、其文明の末路蓋し數世紀の以前にありしならむこと疑を容れず。
論者又或は曰く、科擧の原則そのものは嘉すべきも、其試驗の實際的方法宜しきを得ず、之を試るに經世有用の學術を以てせずして、詩文を主とし八股の舊套に捉はれて之に拘泥せる最も非難すべきなりと。此説一理あるに似たり。然りと雖、所謂惡税は徴收簡易にして、以て確實なる財源となし得べきに反し、所謂良税なるものゝ徴收煩雜、而して徴税の目的に適應せざるもの多きこと、これ司税者の常に嘆ずる所。されば若し税を徴することなくして已むを得ば、則ち論なきも、國家必ず課税の必要ある以上、税目の良否を論ずるは第二の事に屬せざるを得ずして、司税者の苦衷にも大に同情を寄すべきものあると一樣に、若し國家が門戸を開放し、人材の登庸に公平を持するが爲めに、何等かの試驗を行ふ必要あること爭ふべからずとせば、試驗科目の是非の如きはこれ枝葉の問題なり。科目の如何を論ぜず試驗を行ふは、全く之を行はざるに優ること明なればなり。此點よりして考察せば、試驗科目の適否の如きは、科擧の美制たるに累をなすものにあらざること昭々たるべし。
更に一歩を進めて科擧に於ける試驗科目の當否を論ずるも、亦一概に迂遠なりとして之を排斥すべきにあらざるを明
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