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 是によりて見れば瀧口に關する寛喜二年の古例の記録は官府に存せざりしや明なり、然るに吾妻鏡寛喜二年閏正月廿六日の條に
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瀧口無人之間、仰經歴輩之子孫、可差進之旨、被下院宣已訖・仍日來有其沙汰、小山下河邊千葉秩父三浦鎌倉宇都宮氏家伊東波多野、此家々可進子息一人之旨、今日被仰下其状云云
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若寛喜の此記事にして官府の日記なりとせば、建長二年に於て各家に賜へる御教書に就きて古例を尋ぬるの要なかるべし、而して建長二年の條には人數不分明とあれば、寛喜の記事は官府の日記にあらざること照々たり。
    (三)[#「(三)」は縦中横]吾妻鏡の性質及其史料としての價値に關する私案
 吾妻鏡は純粹の日記にもあらず亦幕府の記録にもあらざること前文述ぶるが如くなりとする時は、吾妻鏡は然らば如何なる性質のものなるやとの疑問は必生ずべし、私案を以てすれば吾妻鏡は三部よりなる者の如し、
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第一部 治承四年より承元前後まで
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此部は諸家の記録及故老の物語を參照して日記體に編述せし者なるべく吾妻鏡中趣味尤津々たれども從ひて潤飾の跡多く北條氏の爲に曲筆をなせし個所少からず
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第二部 建暦前後より延應の前後まで
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此部は追記の個處も曲筆も第一部よりは少し、大事變の場合を除けば他は主として諸家の日記によれる者の如し、全體に於ては一人の編輯の如くなるも、口碑を採用せし點は至つて少く、第一部に比して多く信憑するに足る文暦二年及寛元二年の重出するは第二部の終りと第三部の初と其年代に於て重複する所あるの證左なるべく、第二部も終りに近くに從ひて純粹の日記となる、恐くば第三部の初は第二部の終りの直接史料にあらざるか
第二部の第一部と其編者を異にするは、大事變大儀式等を記述するに當りて、第二部に特有なる熟語[#ここから割り注]例へば濟々焉の如し[#ここで割り注終わり]の用ひらるゝによりて之を推すべし
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第三部 延應前後より終りまで
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此部は北條氏の左右の記せる純粹の日記なり
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 此の如く吾妻鏡は複雜なる構成を有するものなり、若し一貫したる性質のものとする時は寶治二年二月五日の條の
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