ると言っても決して過言でない。就中《なかんずく》霊界居住者が、神の観念を伝えんとする時に、その傾向が一層強烈である。霊界居住者自身も、神につきて知る所は甚《はなは》だとぼしい。その結果、それに用いられる文字は、必然的に極めて不完全、極めて不穏当である。精確に神を定義し得た文字は、世界の何所にも見出されない。
 ここに鑑《かんが》みる所があって、われ等は神の真理の一部を伝えるべく、新たに特派されたのである。然《しか》るにわれ等の選べる霊媒の心には、すでに何等かの定見が出来て居る。それ等の一部は全然間違って居《お》り、他の一部は半ば正しく、又他の一部は或《あ》る程度まで歪曲されて居る。之《これ》を根本的に改造することは到底不可能である。そんな真似をすれば、破壊のみあって建設はないことになる。で、われ等は霊媒の固有の意見の中で、最も真実に近いものを捕え、できる丈|之《これ》を培養し、補修して、以《もっ》てわれ等の通信の目的に副《そ》わせるように仕向ける。無論彼の懐ける独断的意見には、斧鉞《ふえつ》を加えねばならぬが、格別害にもならぬ意見は、そのままに棄て置き、自然に彼の心眼の開けるのを待って居る。
 従って彼の神学上の意見は、依然として、今でも心の何所かに残存するのであるが、ただそれは以前の如く、心の表面に跋扈《ばっこ》することがない。われ等は言わば、だましだまし彼を通信の用具に使役して居るのである。そこにわれ等の図り知られぬ苦心が存する。
 人間界の批評家は、往々霊界通信を以《もっ》て、霊媒の潜在観念の表現に過ぎないという。それは或《あ》る程度当っていないでもない。何となれば霊媒の意見は、それが無害である限り、大体元のままに保存され、ただ人目につかぬ程度に、幾分修正されているに過ぎないからである。が、有害なる意見は、跡方もなく一掃されて居ることを忘れてはならない。
 大体に於《おい》ていえば、われ等にとりて、信仰の形式などは実はどうでもよいのである。肝要なのは信仰の生命である。かるが故に、われ等はいつも既成の基礎工事を利用し、その上に新解釈を施すべく努力する。全体の輪廓は少しも変らないが、ただわれ等の解釈には新らしき生命が流れ、そして虚偽の分子、不健全の要素が、人知れず除かれているのである。
 かの贖罪説とても、解釈の仕方によりては立派に生きて来る。汝等はキリストを救世
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